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「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」
「感覚は分かるけど、仏像が埋まっている状態になるにはトレーニングがいるよ。それは地道なトレーニングの積み重ねである意味、語学のトレーニングにも似ている。意味は分からずとも定理を何度も何度も書写を重ねていく内に、ある日ハッとわかるようになる。 よく『化学は物理学に、物理学は数学に、数学は哲学になる』っていうけど、あれはウソだ。そうやって懐手して数学している気になったヤツはたいていつぶれる。」
自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫(ほ)ってみたくなったから見物をやめてさっそく家(うち)へ帰った。 道具箱から鑿(のみ)と金槌(かなづち)を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風(あらし)で倒れた樫(かし)を、薪(まき)にするつもりで、木挽(こびき)に挽(ひ)かせた手頃な奴(やつ)が、たくさん積んであった。 自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫(ほ)り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片(かた)っ端(ぱし)から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵(かく)しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った。それで運慶が今日(きょう)まで生きている理由もほぼ解った。
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開いた括弧は必ず閉じる -- あるプログラマー
分野はやや違うが (スコア:5, 興味深い)
数学はまったくの門外漢の物理屋ですが、定理を見つけ出す過程に通じるものがあるかなという気がします。
数学で研究職を得ている友人にこれをはなすと
というはなしてくれました。
Re: (スコア:0)
それは当然、木仏を作るための木についても同じで、
運慶が「木の中から仏を掘り出す」と表現したのは、
芸術家としての感覚から出た言葉なのかもしれませんが
一方で宗教的な考え方にも根ざしているのではないかと思います。
ちなみに仏教の真理というのも
釈迦が「発明」したのではなく「発見」したものという事になっていますね。
数学はプログラムと良くにていると思い、しかし本質は物理にあると思う (スコア:0)
だんだん高度な数学を勉強するにつれて、特にカントールや公理的集合論をやり始めたら、数学はいかなる物にしても人間に作られたものだと思った。
それはまるでプログラムをしている様なものに感じられた。
さらに勉強を進めてみると、簡単な公理から次々と驚くべき定理が出てくることに気づいた、それは発見するものだと思った。代数学はそんな発見の連続でした。
最後に気づいたことは、いかなる数学も物理現象にすぎないという事実でした。
プログラムはハードウェアの上で動作する、それは物理的に装置で行われている。
数学も同様、数学が物理を説明しているのではない、物理現象が数学なのだ。
物理現象は発見するしかないので、数学も本質的には発見であると思った。
Re: (スコア:0)