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そもそも科学技術は信じることを要求しない。その仕組みに対して理解を放棄しようとも波動関数は役に立つし、「こんな鉄の塊が飛ぶわけない」と考えていても飛行機は飛ぶ。
一方、全ての宗教は信じることを要求する。「信じなければ救われないぞ」と脅しをかける。
私は科学のほうでいいや。
その話はおかしくないだろうか?「記号や言語の持つ意味が(ある程度)一意なこと」を信じなければ、科学的な議論は何もできないのでは?
むしろ、五感で感じる物事を信じ、仮説を信じ、検証結果を信じて、そういったことを試行錯誤しながら積み重ねて、初めて科学技術が発展していくものじゃないのかな?
逆に「信じること」をしないで科学って発展できるものなのだろうか。
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物事のやり方は一つではない -- Perlな人
「○○を信じる」という脳内プロセスは同じかもしんないが…… (スコア:1, すばらしい洞察)
そもそも科学技術は信じることを要求しない。
その仕組みに対して理解を放棄しようとも波動関数は役に立つし、
「こんな鉄の塊が飛ぶわけない」と考えていても飛行機は飛ぶ。
一方、全ての宗教は信じることを要求する。
「信じなければ救われないぞ」と脅しをかける。
私は科学のほうでいいや。
Re: (スコア:0)
その話はおかしくないだろうか?
「記号や言語の持つ意味が(ある程度)一意なこと」を信じなければ、
科学的な議論は何もできないのでは?
むしろ、五感で感じる物事を信じ、仮説を信じ、検証結果を信じて、
そういったことを試行錯誤しながら積み重ねて、初めて科学技術が発展していくものじゃないのかな?
逆に「信じること」をしないで科学って発展できるものなのだろうか。
Re:「○○を信じる」という脳内プロセスは同じかもしんないが…… (スコア:0)
> 科学的な議論は何もできないのでは?
科学においては対象や現象が客観性や再現性を持つ必要があります。
我々はそれは経験的に正しいと思っていますが、究極的な裏づけがあるわけではありませんので(陳腐な例ですが、我々の宇宙はコンピュータシミュレーションだったとか)、
「今はそんなこと(宇宙シミュレーションの可能性とか)は考えない」と態度を保留する必要がありますね。
保留に耐え切れない人は、信じちゃったり信じなかったりして、たまに信仰告白したりするわけですが。
心の問題など主観を扱うことは科学には無理でしょう。現在では主に文学と「古典的」精神医学が担当しています。