In The End of Faith, Harris devotes a chapter to "The Nature of Belief." His main argument is that all our beliefs, except those relating to religious dogma, are based on evidence and experience. He says that religion allows views that would otherwise be a sign of "madness" to become accepted or, in some cases, revered as "holy."
by
Anonymous Coward
on 2009年10月07日 17時50分
(#1650275)
非常に参考になるのですが,一点.
> 「「神による禁忌」って思ってるものって、単に経験的事実なんだよ。」 をHarrisが主張していることについて, >> His main argument is that all our beliefs, except those relating to religious dogma, are based on evidence and experience. を引用するのはイマイチではないでしょうか?
科学にせよ信仰にせよ (スコア:2, 興味深い)
対象が何であれ自分が信じていることを述べているだけなんだから、そのときの脳の状態に変わりがないというのは当たり前な気がするけど。
当たり前のことを検証するのも科学でしょうか。
この実験結果から導きたいことはなんでしょね。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:4, 参考になる)
この実験結果から導きたいことはなんでしょね。
筆頭著者のHarrisってひとが無神論者で2005年に「PEN/Martha Albrand賞」をとった“The End of Faith” [amazon.co.jp]の著者ってのも踏まえてみると分かる。
wikipediaだけど [wikipedia.org]
「「神による禁忌」って思ってるものって、単に経験的事実なんだよ。」(豚は不浄←寄生虫に注意、みたいな)ってのがこの人のもともとの主張で、脳内情報処理もそうなってましたね、ってこと。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1, 参考になる)
非常に参考になるのですが,一点.
> 「「神による禁忌」って思ってるものって、単に経験的事実なんだよ。」
をHarrisが主張していることについて,
>> His main argument is that all our beliefs, except those relating to religious dogma, are based on evidence and experience.
を引用するのはイマイチではないでしょうか?
後者は(意訳すると)
人間が信じる行為は,宗教的なドグマに関係するもの以外は事実や経験に基づくものだ
なので,逆ですよね?
ハリスはハリスでも違うハリスか。 (スコア:1)
メタモデで「Harrisってひと」、「禁忌」、「豚」ってフレーズを見て:
「ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源」[http://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%... [amazon.co.jp]]
のマービン・ハリスのことかしらと一瞬思って確認に来た。
このストーリーで話題なのはサム・ハリスという人なので違ったようだが。
ちなみにマービン・ハリスの方は世界各地の気候風土とそこで可能な食料(とくに蛋白源)の採集/生産様式が文化(含む宗教と食物タブー)に及ぼす影響について書いてる人。
↑の本では、同じ「食べてはいけない」となる食物タブーでも:
中東で豚が「不浄な動物」(実際の理由:年中乾燥した中東の気候には向かないうえに人間用にも必要な穀物を喰うから喰う以前にそもそも飼っちゃダメ)となり、
インドで牛が「聖なる動物」(実際の理由:雨期に備えて乾期に行う耕作のため飼う必要があるが、どんなに食うに困っても食ってはダメ)となること。
文化による戦争捕虜の扱い方の差、例えば「国の民として定着を促される」(中国、欧州)~奴隷(ローマ)~「貴重なタンパク源として食われる」(アステカ)が
気候風土(例えば降水量とそのパターンや地形/地質からくる灌漑農業可能領域の広さ、あるいは家畜となり得る大型哺乳類の有無といった条件)に影響されていること。
あるいは人口増加で教義が変わっていった(インドのバラモン教、仏教、ヒンズー教で肉食や牛肉食が禁忌となる過程)こと。
…などこのストーリーと話題が重なるうえに中々興味深いことが書かれています。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:2, 興味深い)
科学者からすると、信仰ってのは論理的思考に基づくものではない。
したがって、科学的思考をするときと、脳の活性部位が違ってるかもしれない。
じゃぁ見てみよう…
うーん、変わらんな…
まぁそれはそれで興味深いから、論文書いて投稿しよう。-> NewsWeek の目に留まる
てなとこじゃないすかね。それにしても「脳というの観点からすると」ってどういう観点だ。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1)
結論、
化学者は論理という神を信じているんですよ。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:3, すばらしい洞察)
キリスト教徒の方は、神によって世界が創られたことを信じて疑わないかもしれませんが、科学者の立場であれば、いろいろ仮説や理論を立ててうまく説明を試みようとして、でも批判や反証を受けてよりよく修正したりして、もっともらしい説明を求めようとするんだと思います。
科学も宗教も信じているものが物理法則か神かでまるで一緒だよ、という人がいますが、上のように反証可能性を認めるかどうかに違いがあるんだと思います。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:3, 参考になる)
> キリスト教徒の方は、神によって世界が創られたことを信じて疑わないかもしれませんが、
> 科学者の立場であれば、いろいろ仮説や理論を立ててうまく説明を試みようとして、
> でも批判や反証を受けてよりよく修正したりして、もっともらしい説明を求めようとするんだと思います。
聖書の何処だかに
「神は人が自らの知恵によっては神を知ることができないように神自身を隠している」
ということが書いてあります。
ですので例え科学者が実験や理論によって神の存在を明らかにしても
キリスト教徒は「それは神ではない」というでしょう。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1)
「そんなのはテレポーテーションじゃない!」と言っても無視されてるんだから、「それは神ではない」と言っても無視されるだろうなー。
the.ACount
「反証可能性」と「遡及可能性」 (スコア:1)
信仰には、「反証可能性」に相当するものがないのかといえば、
そうは言えないと思います。ある命題が「反証可能」であれば、
採用する、不可能であれば採用しないというのが、「反証可能性」
が実際に意味するものです。
信仰においては、伝統的な教義(過去に遡及できる命題)なのか、
新興の教義(過去に遡及できない命題)なのか、というものさし
があって、伝統的な教義なら正しい、新興の教義なら正しくない
と判断する訳です。その意味で、「遡及可能性」とでもいうべき
判断の基準があるといえます。
こうなると、信じている体系と基準が違うだけですから、宗教も
科学も脳みその反応レベルでは同じなのは当然だと思われます。
------ nori2
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:2, 興味深い)
科学者が信仰しているのは科学思想、経験則、「物理法則の存在」の仮定だよ。論理ではない。
論理的な宗教者もたくさんいる。論理を用いて自らを擁護している。
ただし、論理を用いている対象が検証できない未知のものだから、記号を変えるだけで
すぐに空飛ぶスパゲッティになってしまうわけだ。
#もう!栗栖ちゃんはお茶目なんだから!
新人。プログラマレベルをポケモンで言うと、コラッタぐらい
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1)
化学者・・・科学者(T_T
#アビゲイルだったかなあ、そんな台詞
Re: (スコア:0)
逆手に取って幽霊も超常現象もただの脳内妄想です証明終わり、ってできそうですが
だめかな?
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:2)
なにせ宗教国アメリカの大学ですもの。
# 進化論よりも優れた理論が出てきて進化論が否定される、というのならわかるが、「それは聖書の記述に反するから否定」されちゃう国ですから。日本の感覚ではよくわからない事情があるんじゃないかなぁ。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1, すばらしい洞察)
一回真偽を認識すると、二回目以降の判定は記憶に基づいてショートカットする、ということじゃない?
そうなれば、科学と宗教を分けるのは、一回目の真偽を認識するプロセスと、自分の信念に論理的で正当な反論をぶつけられたときの応答(つまり新たな矛盾する命題に対する一回目の真偽判定)、と言える。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1, すばらしい洞察)
信仰心の有無に関わらず、考え方は同じだから、その人の既成概念に反しない形で論理を組み立てれば、非科学的なことでも信じさせられるということでしょう。
当たり前のことを検証するのが科学です。検証しないうちは宗教と同じ。
自分は科学的に思考をしていると信じている人を打ちのめすための研究なんでしょう。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1)
>当たり前のことを検証するのも科学でしょうか。
ニュートリノの存在を実験で確認することは、科学じゃないですか?
何がどこまで当たり前か? 本当にそれを当たり前としていいのか?
それは、決して簡単な問題ではありません。
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科学は決して、絶対的に正しい理論ではありません。
今までに私たちが体験したことを説明するために、今までに考え出されたものの中で、最もそれらしいものを科学と呼んでいるにすぎません。
今日では、科学は相当に発展し、かなり多くの事象を矛盾なく説明できるようになっていますが、まだ科学で説明できないこともありますし、理論も完全に完成されているわけではないし、「最もそれらしい」の基準は非常に曖昧です。
そんな科学が、宗教をバカに出来ますかい?
# 科学で解明できていない部分になら、神様がいてもいいじゃないですか。
# そう思いつつ、科学を信仰しています。
1を聞いて0を知れ!
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1)
変革を続けてる科学が、現状に合わせた修正もできない宗教をバカに出来るのは当然だろ。
the.ACount
Re: (スコア:0)
Re: (スコア:0)
自分で確認したわけで検証したわけでもないので、科学と言う宗教を信じてると言っていいのかもね。
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1)
科学教を信じているけど過信はしないで常に検証を続けるってことかな~
Re: (スコア:0)
私は結構この結果に驚いたのですけれど、当たり前ですか?
事実に基づく話をする時は、記憶 → output
信仰に基づいた話をする時は、記憶 → 信仰フィルタ → output
としているのだと思っていましたが
信仰フィルタすらなく、本当に事実だと思ってるんですか
この実験を、一般的な宗教感を持つ日本人にやってみて欲しいなぁ
「食べ物を粗末にすると罰が当たる?」 とか聞くと、きっとフィルタ的解釈が観測出来ると思うんです
Re:科学にせよ信仰にせよ (スコア:1)
自分で確認したことだろうと、人から聞いただけのことだろうと、信じれば同じこと。
科学者だって科学的事実全部を自分で確認してるはずがないから、違いがあるはずもない。
といった当然のことでも、確認しないと科学的事実にはならないってことさ。
the.ACount
Re: (スコア:0)
道徳と信仰はさらに分解する必要があるね
Re: (スコア:0)
というプロセスを通るから同じになっているのかもしれないでしょ。
あなたが生まれた時から科学や信仰という概念を持って生まれてきたのだとしたら、新しい宗教を始めると良いと思います。