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人類四大宗教「キリスト教」「イスラム教」「共産主義」「科学」、何れも人類史に残る大虐殺をしています。地獄や天罰に対する信念が有る「キリスト教」と「イスラム教」、同無しの「共産主義」と「科学」、結局大差無いでしょう。
こういう言い方って、無宗教がありうるという前提だと思うんだけど、自分は無宗教だと思っている人がいちばん、たちが悪いかもしれません。
キリスト教なり共産主義なり、自分が信じるものに名前があれば、自分が信じている対象はこれなんだ、と客観的に考える足がかりになります。だから、自分が信じている体系になにか不都合が生じれば、それにしがみつくなり、それから離れるなり、といった判断を下せます。(下せないとしても、そういう判断が必要なのだということくらいは気付くことができます)。
自分が信じているものに名前がなければ、自分が実はなにかを信じているのだという事実に自分で気付くことさえできず、その信じる対象にとらわれたまま、客観視することができません。で、宗教を信じている奴らは非合理的だが自分は合理的だと思い込み、突っ走ってしまう可能性があります。
キリスト教なり共産主義なり、自分が信じるものに名前があれば、自分が信じている対象はこれなんだ、と客観的に考える足がかりになります。
そこに名前の有無は関係ないでしょう。宗教に名前があろうがなかろうか、ほとんどの一般的な「信者」にとっては、そこは客観性を育む場ではなく、この見方が正しいんだという「誰かが決めた」主観を再インストールされる場になっているのではないでしょうか。特に、信者獲得にやっきになるような新興宗教の場合には、その宗教を客観視する行為そのものが、教団内における批判の対象になったりもします。オウムのように、外部との接触を遮断することで積極的に客観性を失
> これも、宗教や信仰というものを客観視できるだけの手がかり、足がかりのある人だからこその見方だと思います。> ほとんどの「信者」と呼ばれる人々は、それを不都合だとは認識しないように、気付かないように教育されるように見えます。
そうかもしれません。ただ「可能性がある」というだけの話です。実際には頭の硬い原理主義者はどこにでもいます。それでも、世の中には複数の宗教があるという事実を知らない人はいないと思いますし、可能性は残されています。
> しかしながら、ほとんどの無宗教・無信仰(というかちゃらんぽらんな宗教観の日本人)とは、そういう「無宗教教の信者」ではなく、> きちんと宗教というものを外部から客観視した上で(と言うよりも、価値を限定した見方をした上で)、お彼岸や葬式は宗派ごと、> 結婚式はセレモニーとして、クリスマスはイベントとして、そして除夜の鐘を風物詩として聞いた直後に新年の気持ちの区切りをつけに> 神社に行って巫女さんを眺める(違)わけです。> 各種宗教の言う理想である「認め合うこと」「許し合うこと」を、宗教をクロスオーバーさせたレベルで体現している…といったら言い過ぎでしょうが(笑)。
それは、狭義の「宗教」については言えるかも知れません。しかし、それはまさしく、日本人は無宗教だから宗教から自由に・宗教を客観的に見ることができる特別な立場にある、という(私が思うに誤った)考えに陥ってしまうことだと思います。
価値観のない人なんてありえないと私は思います。たとえば、罰せられる可能性がなければどんな犯罪でも平然とやってのけると本気で思っている人はあまりいないと思います。それは、その人が信じる価値観があり、それに反するからです。本当になんの価値観も信じていなければ、おそらく、まともな社会生活さえ送れないと思います。
それは、広義の宗教と言っていいと思います。
それは倫理や道徳のようなものかもしれませんし、すでに議論されているように「共産主義」「科学」「国家」「民族」のようなものかもしれませんし、「自分教」「家族教」「親教」「出身地方教」のようなものかもしれません。
で、その価値観(広義の宗教)について、異なる価値観を持つ人のことを排斥してしまう危険性は、誰でも持っているのだと思うのです。あたかも、ある(狭義の)宗教を強く信じる人が、他の宗教を認めないかのごとく。ただ、(狭義の)宗教の場合は、世の中には複数の宗教があるということは誰でも知ってる事実ですから、客観視できる可能性が残されています。しかし、それが広義の宗教となると、それにとらわれているという事実すら気付くのは難しくなります。
しかし、それはまさしく、日本人は無宗教だから宗教から自由に・宗教を客観的に見ることができる特別な立場にある、という(私が思うに誤った)考えに陥ってしまうことだと思います。
たぶん、ここがすれ違っているのかもしれませんね。私は、日本人が「無宗教」であることを意識しているとは思っていません。(あなたの仰るところで言えば狭義の)宗教の存在そのものすら意識しないレベルと言ってもいいかもしれません。
(と言うよりも、価値を限定した見方をした上で)、
とも書いたように、価値を限定した見方どころか、それこそ自分にとって直接関係の無い、道
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吾輩はリファレンスである。名前はまだ無い -- perlの中の人
無いものを信じろと言われても... (スコア:0)
Re: (スコア:0)
人類四大宗教「キリスト教」「イスラム教」「共産主義」「科学」、何れも人類史に残る大虐殺をしています。
地獄や天罰に対する信念が有る「キリスト教」と「イスラム教」、同無しの「共産主義」と「科学」、結局大差無いでしょう。
Re: (スコア:0)
こういう言い方って、無宗教がありうるという前提だと思うんだけど、
自分は無宗教だと思っている人がいちばん、たちが悪いかもしれません。
キリスト教なり共産主義なり、自分が信じるものに名前があれば、自分が信じている対象はこれなんだ、
と客観的に考える足がかりになります。だから、自分が信じている体系になにか不都合が生じれば、
それにしがみつくなり、それから離れるなり、といった判断を下せます。(下せないとしても、
そういう判断が必要なのだということくらいは気付くことができます)。
自分が信じているものに名前がなければ、自分が実はなにかを信じているのだという事実に
自分で気付くことさえできず、その信じる対象にとらわれたまま、客観視することができません。
で、宗教を信じている奴らは非合理的だが自分は合理的だと思い込み、突っ走ってしまう可能性が
あります。
Re: (スコア:0)
そこに名前の有無は関係ないでしょう。
宗教に名前があろうがなかろうか、ほとんどの一般的な「信者」にとっては、そこは客観性を育む場ではなく、この見方が正しいんだという「誰かが決めた」主観を再インストールされる場になっているのではないでしょうか。
特に、信者獲得にやっきになるような新興宗教の場合には、その宗教を客観視する行為そのものが、教団内における批判の対象になったりもします。
オウムのように、外部との接触を遮断することで積極的に客観性を失
Re:無いものを信じろと言われても... (スコア:0)
> これも、宗教や信仰というものを客観視できるだけの手がかり、足がかりのある人だからこその見方だと思います。
> ほとんどの「信者」と呼ばれる人々は、それを不都合だとは認識しないように、気付かないように教育されるように見えます。
そうかもしれません。ただ「可能性がある」というだけの話です。実際には頭の硬い原理主義者はどこにでもいます。
それでも、世の中には複数の宗教があるという事実を知らない人はいないと思いますし、可能性は残されています。
> しかしながら、ほとんどの無宗教・無信仰(というかちゃらんぽらんな宗教観の日本人)とは、そういう「無宗教教の信者」ではなく、
> きちんと宗教というものを外部から客観視した上で(と言うよりも、価値を限定した見方をした上で)、お彼岸や葬式は宗派ごと、
> 結婚式はセレモニーとして、クリスマスはイベントとして、そして除夜の鐘を風物詩として聞いた直後に新年の気持ちの区切りをつけに
> 神社に行って巫女さんを眺める(違)わけです。
> 各種宗教の言う理想である「認め合うこと」「許し合うこと」を、宗教をクロスオーバーさせたレベルで体現している…といったら言い過ぎでしょうが(笑)。
それは、狭義の「宗教」については言えるかも知れません。しかし、それはまさしく、日本人は無宗教だから
宗教から自由に・宗教を客観的に見ることができる特別な立場にある、という(私が思うに誤った)考えに
陥ってしまうことだと思います。
価値観のない人なんてありえないと私は思います。たとえば、罰せられる可能性がなければどんな犯罪でも
平然とやってのけると本気で思っている人はあまりいないと思います。それは、その人が信じる価値観が
あり、それに反するからです。本当になんの価値観も信じていなければ、おそらく、まともな社会生活さえ
送れないと思います。
それは、広義の宗教と言っていいと思います。
それは倫理や道徳のようなものかもしれませんし、すでに議論されているように「共産主義」「科学」「国家」「民族」の
ようなものかもしれませんし、「自分教」「家族教」「親教」「出身地方教」のようなものかもしれません。
で、その価値観(広義の宗教)について、異なる価値観を持つ人のことを排斥してしまう危険性は、誰でも持っている
のだと思うのです。あたかも、ある(狭義の)宗教を強く信じる人が、他の宗教を認めないかのごとく。
ただ、(狭義の)宗教の場合は、世の中には複数の宗教があるということは誰でも知ってる事実ですから、
客観視できる可能性が残されています。しかし、それが広義の宗教となると、それにとらわれているという
事実すら気付くのは難しくなります。
Re: (スコア:0)
たぶん、ここがすれ違っているのかもしれませんね。
私は、日本人が「無宗教」であることを意識しているとは思っていません。
(あなたの仰るところで言えば狭義の)宗教の存在そのものすら意識しないレベルと言ってもいいかもしれません。
とも書いたように、価値を限定した見方どころか、それこそ自分にとって直接関係の無い、道