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人間の脳は幸福を相対評価でしか認識できないというコラムだか何だかを読んだ覚えがある。だから、もしあなたが年棒が2千万に上がってこの上ない喜びに打ち震えていたとしても、あなたの隣の席に座っている奴が年棒2千1万円だと知ったとたんに、もうあなたは幸せな人間ではなくなってしまう。
このシステムが必然的に示すことは、世の中で完全な幸せに浸れる人は、世界でたった一人、最も持てる者だけという何とも救われない話。人はいつまでも手に入るはずのない幸せを求めてあがき続けなくてはならないさだめ。これが人の原罪というものかもしれない。「足るを知る」とうそぶいて表を繕ってみても、脳がそういう風に作られちゃってるんだから、正常な脳を持っている人なら実際はこの煩悩から逃れようがない。
これは幸福というのが本来、生存競争に打ち勝って子孫を残すという、まんま競争相手との相対的な強弱関係に勝利することへの報酬として生まれたのだからむべなるかな、という話。
しかし、
そのほか「他者よりも多くのお金を得ると幸福感が下がる傾向をもつ人」
がいるというのは初めて聞いた。それは上記の話では説明できないなぁ。「利己的な遺伝子」論の、個人より集団の利益を優先するケースで説明がつくのだろうか。
「他者より良い状況であることが幸福感に繋がる」のだとして、でも「収入のみがその評価軸」ではないのだから、
>このシステムが必然的に示すことは、世の中で完全な幸せに浸れる人は、>世界でたった一人、最も持てる者だけという何とも救われない話。
これは正しくないなぁ。例えばAくんは「Bさんより収入が多いこと」に喜びを見いだし、Bくんは「Aさんより家族が多いこと」に喜びを見いだすのであれば、(ヤな言い方すれば)「他者を見下すことが幸福という醜悪なシステム」だとしても、それぞれが幸福に浸れる。Aくんが家族の人数、Bくんが収入を気にしなければ、ね。
・・・そこで「家族も収入も持ってる人だけが」みたいな考え方をするかもしれないが、それはまた別のCさんの評価軸であって、Aくんは人数を気にしないんだから無意味な話になる。また評価軸は必ずしも両立しないパターンもあり得る(家族が少ない方が気楽で幸せだという人も居るだろう)から、「全ての者の全ての評価軸を同時に満たす」ことも不可能だ。
だから本能的に(感覚的に)「俺より持ってる奴がいると不幸だ」と感じる一方で、理性(というか理屈、学習、自己改変)側で「評価軸は一つじゃないし、自分を羨む人だって居るだろう」という観点で自己の幸福感受性を弄ることも可能ではなかろうか。何に喜びを感じるかって、生来持っているものも大きいけど、後天的にズラしたり新たに獲得したものもあると思うんですよ。
あとオマケで、最後のトコは仮にシステムが利己性のみで成り立っていると仮定しても、自己実現性(俺が皆の幸福度を引き上げてやると俺は嬉しい)とか社会性動物としての危機管理(窮す者を助けることで俺の危険を減らせる)とかでも解釈しようはあるんじゃないですかね、一応は。
年収650万の独身時代に、世帯年収1千万の家族持ちより、自由に使える金が多い事を喜んでいたけど、同時に家に帰っても誰もいない寂しさもあった。
幸福にはいろいろ軸があるように見えて、その出所は、自分の持つ遺伝子を多くばらまくことに貢献する行為への報酬というもの。すべてはそこに向かって1つにつながっている。(そりゃ遺伝子がとち狂ったり、精神の変調やらで、全然貢献しない事柄に喜びを見出す輩は、つねにある程度いるが)だから「Aくんが家族の人数、Bくんが収入を気にしなければ」などの算数の問題のような単純化は実際は起きなくて、A君はA君の幸福軸上で「上には上」の人に出会うだろうし、また、自分と同じ収入を持つ人と出会うと、それ以外の軸で彼我の優劣をつけようとするだろう。
だから本能的に(感覚的に)「俺より持ってる奴がいると不幸だ」と感じる一方で、理性(というか理屈、学習、自己改変)側で「評価軸は一つじゃないし、自分を羨む人だって居るだろう」という観点で自己の幸福感受性を弄ることも可能ではなかろうか。
それは適応機制というもので、適応機制をとらざるを得なかった場合は、やはり満足度、幸福感は減じるのではなかろうか。
金持ってて嫉妬されたり陰口叩かれたりするかもと心配で不幸に思うのかも
>「利己的な遺伝子」・・・略・・・で説明がつくのだろうか。
タレコミのリンク先では罪悪感かも知れないと書いていますね。この実験だとギャンブルなのでお金は努力の対価ではありません。フリーランチに仕掛けられた罠に対する警戒心という側面もあると思います。豊かな縄張りなのに主が居ないのは捕食動物の巣が近いのかも知れませんから。
その「罪悪感」というものが進化の中でどうやって生まれてきたのか、という話。
しかしその論文、Happiness(t)の式まで出してきたのには笑ってしまう。とたんに胡散臭い疑似科学めいてしまうなぁ。その式はなんの予想も証明も出来ないだろうに。
相関があるのではというのを函数という形で表したってことそれに予想したからそう書いたんだと思いますが、予想はできないって断言するのはなぜかしら自動筆記とかですか?そういうのはオカルトのカテゴリーで途端に胡散臭く感じます
予想というのは、普通の科学で理論の正当性の検証で行われるような事の話。その式(あるいは理論)が何かしら未だ発見されていない現象を予想(予言)し、そしてそれが実験などによって実際に予想通りに起きることが証明されると、その理論の正当性が認められる。
例えば、哲学は100人が100通りの自分なりの理論を提唱するけど、どれ一つとして予言性や検証可能性を持たない。経済学者だってもっともらしい数式を論文に書いたりするけれど、それらの式は過去の出来事をうまく説明しているように見えるが未来の予想には使えなかったりする。(ゆえに経済破綻とか起きるんですな)だから哲学や経済学は「科学的」とはいいがたい学問分野なんです。
関数の形で書いただけでここまで言われなきゃいかんのか…どう書きゃいいんだよ
経済学や心理学に多くを求めすぎていますよ。経済破綻を阻止できないのは調査不足と計算力不足のせい。あとは調査の精度の問題もあるし人間や社会に対する理解不足のせいもある。未来の予測ができないのは天気予報が当たらないのと同じこと。天気予報は当たらない上に降水確率を割合で表すが実際にその割合が正しいかは誰にもわからないわけだから(6/28日を百回繰り返して検証するなんて誰にもできませんからな)。非科学的というのは否定しないが一年後を正確に予想できないから非科学的というなら科学的な学問といわれるものの多くは非科学的なんでしょう
> 経済破綻を阻止できないのは調査不足と計算力不足のせい。あとは調査の精度の問題もあるし人間や社会に対する理解不足のせいもある。
経済学は**不足という以前に、ある問題に対するのにどの理論を適用すべきかなんてことで、経済学者同士の論争が始まってしまう。ほとんどが同意する定説というものが存在しないから。それは検証に耐えられた理論というものが存在しないから。
> 未来の予測ができないのは天気予報が当たらないのと同じこと。
天気予報が当たらないのは、なぜ当たらないかを説明する科学が存在する。誤差はその理論の示す範囲の中で動く。なぜ誤差が発生するのか、なぜ誤差は避けられないのか、誤差はどれくらいのものなのかをすべて説明できる。
経済学者はなぜ予想が外れたかを聞かれる度に新しい言い訳を用意しているように見えるが。あるいは別の経済学者が出てきて、「間違った経済理論を適用したからだ。私の支持する理論こそが・・・」と言い出して、それが繰り返される。
この罪悪感には利他的行為を怠っているという成分は含まれていると思います。しかしこの場合は、美味すぎる話には注意する、もっと煎じ詰めれば不自然な物事には警戒心を抱くというストレートな自己保存に関わる成分が大きい気がします。どちらも結局は利己的な遺伝子の保存のための戦略ですね。
結局、そのお金を不当に簡単に得たと思えば罪悪感になりますし、不自然に簡単に得たと思えば不安感になるのかと思います。当人や観察者の文化や言語の影響が大きいと考えます。
ただ単に選択圧力が弱いから残ってしまうだけかもしれない。
最初から王様になることが決まって生まれてきた人とかならともかく、普通はトップになろうと思うと死に物狂いの努力が要求される。これは、過重な強制労働と実質的には同じで、トップに立った瞬間だけ見れば幸せかもしれないけど、トップになるまでに味わった不幸もトータルすると、努力しなかった人に比べて幸せかどうかは微妙。しかも、トップになろうと努力した人のほとんどは実際にはトップになれない。すごく危険な賭けだ。ならば、そこそこの努力で生きるに困らないレベルを維持する方が、そこそこ幸せで安全だし多数派にもなれる。生物がそういう生存戦略を無視して進化するとは思えないな。
努力=不幸というのはどこからしみついたのか気になるなぁ…
「働いたら負け」って思想は結構拡がっていますね。
トップになるような努力は、普通の努力とは異質だと思うんですよ。何かを犠牲にしてまでやっているという感じ。もちろん、本人にとっては、それでも不幸ではないかもしれないが、トップに大して執着のない人から見ると不幸に見えることもありうる。
何かを犠牲にしてまで努力したのに、それが報われなかったら不幸じゃない?つまり、努力単独だと収支はマイナス。
本人の感じる幸福の話をしているのに何で「他人が見たら」なんて話になるのか理解不能ですな。なんで自分の感覚をそこまでして押し付けたがるの?この話はむしろ『トップとは何なのか』的話だと思うんだけど。
> トップに大して執着のない人から見ると不幸に見えることもありうる。それがあったから何なの…?
何がつらいのか知らんケド、君が努力してなくても、努力してモノにならなくても、俺は文句言ったりしないよ?
いやいや、元コメは誰もがトップにならないと幸せじゃないと言ってるじゃないですか。で、トップを目指すことが苦にならない人もいるだろうけど、そんな人ばかりじゃないよねって話。
あと、私はトップになるような努力と普通の努力は分けて考えてるよ。
「苦にならない人以外にとっては苦である」とかトートロジーを主張しているとは思わなかった。失礼しました。
こちらこそ、ごめんなさい。改めて自分のコメント読み返してみると、トップを目指すことを苦にしない人も不幸だと主張しているようにも取れますね。そういうつもりではなかったんですが。お騒がせしました。
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犯人は巨人ファンでA型で眼鏡をかけている -- あるハッカー
どこで読んだか忘れてしまったが (スコア:0)
人間の脳は幸福を相対評価でしか認識できないというコラムだか何だかを読んだ覚えがある。
だから、もしあなたが年棒が2千万に上がってこの上ない喜びに打ち震えていたとしても、
あなたの隣の席に座っている奴が年棒2千1万円だと知ったとたんに、もうあなたは幸せな人間ではなくなってしまう。
このシステムが必然的に示すことは、世の中で完全な幸せに浸れる人は、
世界でたった一人、最も持てる者だけという何とも救われない話。
人はいつまでも手に入るはずのない幸せを求めてあがき続けなくてはならないさだめ。
これが人の原罪というものかもしれない。「足るを知る」とうそぶいて表を繕ってみても、
脳がそういう風に作られちゃってるんだから、正常な脳を持っている人なら
実際はこの煩悩から逃れようがない。
これは幸福というのが本来、生存競争に打ち勝って子孫を残すという、
まんま競争相手との相対的な強弱関係に勝利することへの報酬として生まれたのだから
むべなるかな、という話。
しかし、
そのほか「他者よりも多くのお金を得ると幸福感が下がる傾向をもつ人」
がいるというのは初めて聞いた。それは上記の話では説明できないなぁ。
「利己的な遺伝子」論の、個人より集団の利益を優先するケースで説明がつくのだろうか。
Re:どこで読んだか忘れてしまったが (スコア:1)
「他者より良い状況であることが幸福感に繋がる」のだとして、
でも「収入のみがその評価軸」ではないのだから、
>このシステムが必然的に示すことは、世の中で完全な幸せに浸れる人は、
>世界でたった一人、最も持てる者だけという何とも救われない話。
これは正しくないなぁ。
例えばAくんは「Bさんより収入が多いこと」に喜びを見いだし、Bくんは「Aさんより家族が多いこと」に喜びを見いだすのであれば、
(ヤな言い方すれば)「他者を見下すことが幸福という醜悪なシステム」だとしても、それぞれが幸福に浸れる。
Aくんが家族の人数、Bくんが収入を気にしなければ、ね。
・・・そこで「家族も収入も持ってる人だけが」みたいな考え方をするかもしれないが、それはまた別のCさんの評価軸であって、Aくんは人数を気にしないんだから無意味な話になる。
また評価軸は必ずしも両立しないパターンもあり得る(家族が少ない方が気楽で幸せだという人も居るだろう)から、「全ての者の全ての評価軸を同時に満たす」ことも不可能だ。
だから本能的に(感覚的に)「俺より持ってる奴がいると不幸だ」と感じる一方で、理性(というか理屈、学習、自己改変)側で「評価軸は一つじゃないし、自分を羨む人だって居るだろう」という観点で自己の幸福感受性を弄ることも可能ではなかろうか。
何に喜びを感じるかって、生来持っているものも大きいけど、後天的にズラしたり新たに獲得したものもあると思うんですよ。
あとオマケで、最後のトコは仮にシステムが利己性のみで成り立っていると仮定しても、自己実現性(俺が皆の幸福度を引き上げてやると俺は嬉しい)とか社会性動物としての危機管理(窮す者を助けることで俺の危険を減らせる)とかでも解釈しようはあるんじゃないですかね、一応は。
Re: (スコア:0)
年収650万の独身時代に、世帯年収1千万の家族持ちより、自由に使える金が多い事を喜んでいたけど、同時に家に帰っても誰もいない寂しさもあった。
Re: (スコア:0)
幸福にはいろいろ軸があるように見えて、その出所は、自分の持つ遺伝子を多くばらまくことに貢献する行為への報酬
というもの。すべてはそこに向かって1つにつながっている。(そりゃ遺伝子がとち狂ったり、精神の変調やらで、
全然貢献しない事柄に喜びを見出す輩は、つねにある程度いるが)
だから「Aくんが家族の人数、Bくんが収入を気にしなければ」などの算数の問題のような単純化は実際は起きなくて、
A君はA君の幸福軸上で「上には上」の人に出会うだろうし、また、自分と同じ収入を持つ人と出会うと、
それ以外の軸で彼我の優劣をつけようとするだろう。
だから本能的に(感覚的に)「俺より持ってる奴がいると不幸だ」と感じる一方で、
理性(というか理屈、学習、自己改変)側で「評価軸は一つじゃないし、自分を羨む人だって居るだろう」
という観点で自己の幸福感受性を弄ることも可能ではなかろうか。
それは適応機制というもので、適応機制をとらざるを得なかった場合は、やはり満足度、幸福感は減じるのではなかろうか。
Re: (スコア:0)
金持ってて嫉妬されたり陰口叩かれたりするかもと心配で不幸に思うのかも
Re: (スコア:0)
>「利己的な遺伝子」・・・略・・・で説明がつくのだろうか。
タレコミのリンク先では罪悪感かも知れないと書いていますね。この実験だとギャンブルなのでお金は努力の対価ではありません。フリーランチに仕掛けられた罠に対する警戒心という側面もあると思います。
豊かな縄張りなのに主が居ないのは捕食動物の巣が近いのかも知れませんから。
Re: (スコア:0)
その「罪悪感」というものが進化の中でどうやって生まれてきたのか、という話。
しかしその論文、Happiness(t)の式まで出してきたのには笑ってしまう。
とたんに胡散臭い疑似科学めいてしまうなぁ。
その式はなんの予想も証明も出来ないだろうに。
Re: (スコア:0)
相関があるのではというのを函数という形で表したってこと
それに予想したからそう書いたんだと思いますが、予想はできないって断言するのはなぜかしら
自動筆記とかですか?そういうのはオカルトのカテゴリーで途端に胡散臭く感じます
Re: (スコア:0)
予想というのは、普通の科学で理論の正当性の検証で行われるような事の話。
その式(あるいは理論)が何かしら未だ発見されていない現象を予想(予言)し、
そしてそれが実験などによって実際に予想通りに起きることが証明されると、
その理論の正当性が認められる。
例えば、哲学は100人が100通りの自分なりの理論を提唱するけど、どれ一つとして予言性や検証可能性を持たない。
経済学者だってもっともらしい数式を論文に書いたりするけれど、それらの式は過去の出来事をうまく説明しているように見えるが
未来の予想には使えなかったりする。(ゆえに経済破綻とか起きるんですな)だから哲学や経済学は「科学的」
とはいいがたい学問分野なんです。
Re: (スコア:0)
関数の形で書いただけでここまで言われなきゃいかんのか…どう書きゃいいんだよ
Re: (スコア:0)
経済学や心理学に多くを求めすぎていますよ。経済破綻を阻止できないのは調査不足と計算力不足のせい。あとは調査の精度の問題もあるし人間や社会に対する理解不足のせいもある。
未来の予測ができないのは天気予報が当たらないのと同じこと。天気予報は当たらない上に降水確率を割合で表すが実際にその割合が正しいかは誰にもわからないわけだから(6/28日を百回繰り返して検証するなんて誰にもできませんからな)。
非科学的というのは否定しないが一年後を正確に予想できないから非科学的というなら科学的な学問といわれるものの多くは非科学的なんでしょう
Re:どこで読んだか忘れてしまったが (スコア:1)
> 経済破綻を阻止できないのは調査不足と計算力不足のせい。あとは調査の精度の問題もあるし人間や社会に対する理解不足のせいもある。
経済学は**不足という以前に、ある問題に対するのにどの理論を適用すべきかなんてことで、経済学者同士の論争が始まってしまう。
ほとんどが同意する定説というものが存在しないから。それは検証に耐えられた理論というものが存在しないから。
> 未来の予測ができないのは天気予報が当たらないのと同じこと。
天気予報が当たらないのは、なぜ当たらないかを説明する科学が存在する。誤差はその理論の示す範囲の中で動く。
なぜ誤差が発生するのか、なぜ誤差は避けられないのか、誤差はどれくらいのものなのかをすべて説明できる。
経済学者はなぜ予想が外れたかを聞かれる度に新しい言い訳を用意しているように見えるが。あるいは別の経済学者が出てきて、
「間違った経済理論を適用したからだ。私の支持する理論こそが・・・」と言い出して、それが繰り返される。
Re: (スコア:0)
この罪悪感には利他的行為を怠っているという成分は含まれていると思います。
しかしこの場合は、美味すぎる話には注意する、もっと煎じ詰めれば不自然な物事には警戒心を抱くというストレートな自己保存に関わる成分が大きい気がします。どちらも結局は利己的な遺伝子の保存のための戦略ですね。
結局、そのお金を不当に簡単に得たと思えば罪悪感になりますし、不自然に簡単に得たと思えば不安感になるのかと思います。当人や観察者の文化や言語の影響が大きいと考えます。
Re: (スコア:0)
ただ単に選択圧力が弱いから残ってしまうだけかもしれない。
Re: (スコア:0)
最初から王様になることが決まって生まれてきた人とかならともかく、
普通はトップになろうと思うと死に物狂いの努力が要求される。
これは、過重な強制労働と実質的には同じで、トップに立った瞬間だけ見れば幸せかもしれないけど、
トップになるまでに味わった不幸もトータルすると、努力しなかった人に比べて幸せかどうかは微妙。
しかも、トップになろうと努力した人のほとんどは実際にはトップになれない。すごく危険な賭けだ。
ならば、そこそこの努力で生きるに困らないレベルを維持する方が、そこそこ幸せで安全だし多数派にもなれる。
生物がそういう生存戦略を無視して進化するとは思えないな。
Re: (スコア:0)
努力=不幸というのはどこからしみついたのか気になるなぁ…
Re: (スコア:0)
「働いたら負け」って思想は結構拡がっていますね。
Re: (スコア:0)
トップになるような努力は、普通の努力とは異質だと思うんですよ。
何かを犠牲にしてまでやっているという感じ。
もちろん、本人にとっては、それでも不幸ではないかもしれないが、
トップに大して執着のない人から見ると不幸に見えることもありうる。
何かを犠牲にしてまで努力したのに、それが報われなかったら不幸じゃない?
つまり、努力単独だと収支はマイナス。
Re: (スコア:0)
本人の感じる幸福の話をしているのに何で「他人が見たら」なんて話になるのか理解不能ですな。
なんで自分の感覚をそこまでして押し付けたがるの?
この話はむしろ『トップとは何なのか』的話だと思うんだけど。
> トップに大して執着のない人から見ると不幸に見えることもありうる。
それがあったから何なの…?
何がつらいのか知らんケド、君が努力してなくても、努力してモノにならなくても、
俺は文句言ったりしないよ?
Re: (スコア:0)
いやいや、元コメは誰もがトップにならないと幸せじゃないと言ってるじゃないですか。
で、トップを目指すことが苦にならない人もいるだろうけど、そんな人ばかりじゃないよねって話。
あと、私はトップになるような努力と普通の努力は分けて考えてるよ。
Re: (スコア:0)
「苦にならない人以外にとっては苦である」とかトートロジーを主張しているとは思わなかった。
失礼しました。
Re: (スコア:0)
こちらこそ、ごめんなさい。
改めて自分のコメント読み返してみると、
トップを目指すことを苦にしない人も不幸だと主張しているようにも取れますね。
そういうつもりではなかったんですが。お騒がせしました。