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科学とは「信じること」なのか? 145

ストーリー by headless
ただちに理解できるレベルではない 部門より

capra 曰く、

本家/.「Is Science Just a Matter of Faith?」より。

宇宙の起源や原理、人間の進化などに関する、波動方程式や量子電磁力学、分子生物学などを含めた科学的な解説を、科学者以外の人々が理解するのは難しい。我々が物理学や天文学、生物学などにおける驚くべき複雑な科学現象を事実として認める場合、その理由ではなく、「信じる」という行為を通じて受け入れているというのが正直なところだろう。

物理学者のリチャード・ファインマンは著書「The Character of Physical Law 」で「量子力学を理解している人はいないと言っても差し支えないだろう」と書いた。この分野の本を何冊も執筆した彼自身も例外ではないということだ。 実際のところ、厳密な科学的真理や数学・象徴形式が理解できるようになるまでには何年も熱心に勉強する必要がある。そうでない我々は、真理を理解してわかりやすい言葉で説明してくれる専門家に依存することになってしまう。そこに科学と科学者にとっての大きな問題が存在する。多くの人々にとって、現実としては専門家を信用し、その話を信じることが科学ということになる。これは信仰のようなもので、理解とは程遠い。科学の言葉を理解できないなら、どうやって科学を理解できるだろうか。

「我々は科学を歴史と同様に、実践からではなく読んで記憶することにより学ぶ。 原子とは何なのかということや、ヒッグス粒子が非常に重要なものだということを本当に知っているのか。それとも誰かがそう言っていたから、そのように受け止めているだけなのだろうか。」

この争点、科学的に正しくても「専門家による説明が信じられない」場合も併せて考えるとなかなか興味深くなる気がする。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • 科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。

    「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。

    なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。

    --
    はてな支店 [hatena.ne.jp]
    • by Anonymous Coward on 2011年04月10日 12時13分 (#1933862)
      科学とは見方や視点を増やすことで全知全能でない人間した予想に信憑性を増していくプロセスだと思います。
      一方向から見える事実も2方向(人間の目)で視ることで立体感を認識出来ますし
      裏側に回ってみてみたり、上空から写真をとってみたり、
      温度や質量等を計ることでソノモノ・事象が何であるか?
      どうしてそこにあるのか?どうしたら作れるのか?に妥当な答えを出していくことは重要だと思います。
      それは「現時点でのわかっている情報」から類推→応用する技術となり、社会の進歩に結びつくからです。
      宗教に代わる「心の拠り所」として科学を持ってくるのは、苦が重すぎると思います。

      科学的視点というのは「取り扱う商品を増やしているホームセンターの仕入れ基準」みたいなものだと思ってます。
      みんなが使える・作れるモノ・出来ることを増やす。そのお手伝いをする。
      「科学はみんなが幸せになるためにある」と何かの番組で言ってましたが、そんなことだと思ってます。
      人間の言う事に絶対なんてあり得ませんし、人間に作ったモノで壊れないモノなんて出来やしませんよ。
      (元材料物理系研究室所属)
      親コメント
  • by Anonymous Coward on 2011年04月10日 11時18分 (#1933830)

    ソースが公開されているからバックドアは見つけ出されるし致命的なバグは迅速に修正される。
    機能の追加だってユーザーの思うがまま。
    ……と信じはするけど大多数の人はソースなんて見もしないというか。

    科学も、労力(場合によっては時間と資本も)を投入すれば自分で検証できるし間違いを見つけ出すことも出来る、新しい発見をしたり機知の知見を利用した新技術の開発だって可能。
    だけれども大多数の人はそこまで検証しないし誰かが言ってることをとりあえず「まあそういうもんなんだろ」と盲信するか良く理解せずに否定するか。

  • by Artane. (1042) on 2011年04月10日 15時55分 (#1933941) ホームページ 日記

    科学というものが、実際には地道なデータの積み重ねと客観的な検証・追試の数々で成り立ってるものであることをわかった上で書きますが、
    最近言われてる科学的な問題に関して、余りに多くのものが「自分が正しいと言ってるのだから正しいに決まってる。反論は許さない」と言う方向に向かってる感じがするんですよね。

    受動喫煙の問題とか肥満の問題とか地球温暖化の問題とか、ある所で「進歩」が止まってしまって、それ自体がある種の絶対正義になっていてそこへの異論や反証はマトモに検証もされずにどんどん疑似科学とかデマとかそういうレッテルが貼られて葬られている。地道なデータを積み重ねても、特定の結論に行き着かないものを排除することが多い気がします。

    受動喫煙にしても疫学的に確固とした因果関係というのがあんましなくて、その少しの結果をWHOが「正しい」として、それを一部の政治勢力が後押しして、「もっと別の原因で癌が起きたり高血圧などを起こしたりしてるのではないか」と言う問いかけが非常に困難になってる…受動喫煙防止という命題が自己目的化して、少しでもその足を引っ張りかねない学説というのはマトモな追試がされる前から間違いだと決め付けられるのが普通になってる。

    もっと酷いのは地球温暖化問題。
    「地球温暖化の原因としてCO2増加があるのではなく、地球温暖化の結果としてCO2増加したのではないか」とする槌田説は、議論を起こす上で重要な学説ではあるのですが、論文の掲載も気象学会での発表も拒絶されています…そして、裁判沙汰にすらなってる
    http://env01.cool.ne.jp/global_warming/teiso.htm [cool.ne.jp]
    気象学会の動きというのは非常におかしなもので、特定の学説(地球温暖化はCO2増加の結果起こってるものだ)が偏重されて、そこに批判的な考察だということで槌田説が出てきたものの、これが真面目に検証される前に色々な理由を付けて排除されてる。
    要は、「フリーエネルギー」とかと同様のトンデモ説だと排除してる。

    クライメートゲート事件で世界規模で気象学界がデータやシミュレーション結果の捏造、主流学説に批判的な学説・学者の排除を繰り返していた事が曝露されましたが、その調子で全てが特定の学説に奉仕するかしないかで正誤が決め付けられ、結果として特定の学説のみが淘汰されずに生き延びる…そこに、客観的な視点は存在しない。

    そういう感じで、今の社会を振り回してる幾つかの「科学的定説」が、実は疑似科学と同じく「正しいから正しい」と言う自己撞着に陥ってる。
    そこには、科学というより科学者の権力志向とか科学者を利用して政治を動かし金儲けにつなげる人々の権力が余りに強くなってしまってる情けない現象が見受けられるのですが。

    • 科学は、「仮説を立てる」と「仮説を検証する」の大きな二段階で成り立っていると思うのですが、確かに最近、利権を優先して仮説の段階で思考停止している事例が見られますね。検証が1つもされてない物は科学ではないと思うのですが。

      「プルトニウムみたいな超重たい金属が、何10kmも風に乗って飛び、人の肺に入って癌になる」
      なんてことを本気で信じている人が何万人もいるのには驚きますね。
      確かに可能性はゼロでは無いので、症例が1件でも出ればこれも科学扱いになってしまうのかもしれません。

      「地球に隕石が落ちて氷河期になる」って映画を見てもそれが現実になると考える人はゼロだと思うのですが、違いは何なのでしょう?
      ベクレルとかシーベルトのような単位が乱れ飛んでいるのが原因なんでしょうかね。
      偽科学が流行る要因と同じにしか見えないのですが。

      親コメント
      • by barrel (25979) on 2011年04月10日 19時48分 (#1933993)

        >「プルトニウムみたいな超重たい金属が、何10kmも風に乗って飛び、人の肺に入って癌になる」
        >なんてことを本気で信じている人が何万人もいるのには驚きますね。

        逆説的な皮肉だと思いますが信じてしまう人がいると思うので補足しておきますね。
        >長崎原爆に由来するプルトニウムはグリーンランドの氷柱でも発見されている。
        http://www.mri-jma.go.jp/Dep/ge/2007Artifi_Radio_report/Chapter5.htm [mri-jma.go.jp]

        まさかとは思いますが、一連の主張のどこか一箇所だけが間違ってることを理由に「驚いてる」とかはないですよね。

        「プルトニウムみたいな超重たい金属は何10kmも風以外の何かに乗って飛び、人の肺に入って癌になる」
        「プルトニウムは超重くはないけど何10kmも風に乗って飛び、人の肺に入って癌になる」
        「プルトニウムみたいな超重たい金属が、何10kmも風に乗って飛ぶけど人の肺に入って癌になるかは不明」

        などなど。
        それじゃウソはつかないけど本当のことも言わない言葉遊び大好きなどっかの電力会社と同じですよ。

        親コメント
    • by s-kei (16661) on 2011年04月10日 19時48分 (#1933992)

      >槌田説は、議論を起こす上で重要な学説

      その「重要」だとする科学的な論拠はなんですか。
      自説の方がそもそも科学的に正しいのだと主張されるなら、論文を通じて世界の科学者にチェックを受け、認められれば済む話です。

      ところがこの槌田氏、当該分野ではインパクトファクターがついてるような論文が見当たりません。
      大学や研究機関に所属されている方なら(学生も図書館等でアクセスできる方は多いでしょう)、論文データベース(Thomson ReutersのISI Web of Science等)で調べれば、すぐわかります。

      >裁判沙汰にすらなってる

      そして、負けておられますね。
      ”科学的には私の説は正しいんだ、それ以外の所で妨害を受けたんだ”式の陰謀論も、この時点で法的に否定されてます。

      ----------
      世界中の何千人もの専門家が数十年かけて検証してきた報告書 [wikipedia.org]をひっくり返せるほどの信頼性のある根拠を、あなたは提示されていません。

      科学的に明確な根拠を示さずに「酷い」「おかしな」等の主観的表現でごまかすのは、疑似科学の常套手段です。

      親コメント
    • by Anonymous Coward on 2011年04月10日 17時41分 (#1933964)

      英国イーストアングリア大学により設置された独立レビュー組織による「クライメートゲート事件」レビュー結果の公表について(お知らせ) [env.go.jp](環境省)

      未だにクライメートゲート事件が「データやシミュレーション結果の捏造」と、すぐ間違いだと分かるデマを広げようとするのは感心できません。
      「クライメートゲート事件」は「『捏造があった』という嘘の捏造事件」です。

      親コメント
    • by Anonymous Coward on 2011年04月10日 21時59分 (#1934041)

      槌田さんの話が却下されているのは、妨害でもなんでもなく論拠がいい加減だからです。
      そもそも彼が

      >地球温暖化の原因としてCO2増加があるのではなく、地球温暖化の結果としてCO2増加したのではないか

      と主張したそもそもの根拠のグラフ等は、温暖化由来と思われる長期変化をさっ引いて、残りの季節変動が主となったグラフを出して「ほら、濃度変化はほとんど季節変化なんです!」と主張している物です。

      確かに定説とされているものに異論を挟むのは重要なことですし、論文が載りにくくなるのは事実ですが、それは「定説とされているものにはそれなりに根拠となるデータが積み上げられているから、それを覆すって言うんなら十分なデータを示してもらわないとねぇ」という観点(ただし、一種の思い込みでありバイアスがかかっているという指摘は正しい)からです。ですから、定説に対抗しようというならきっちりした論拠を積み上げねばならないのに、槌田さんはそういうのを持っていないと言うだけの話です。いつぞや(ここ数年以内)の物理学会誌(化学会誌だったっけかなあ)に槌田さんの寄稿を載せて、翌月号でフルボッコにされていたりもします。
      #槌田さん以外ではある程度の論拠を元に討論している人はいます。

      親コメント
  • by s-kei (16661) on 2011年04月10日 21時37分 (#1934032)

    科学者が自説の信頼性を他の専門家にチェックして貰い、信頼性を高めるためには、下記のような手順を用います。

    ・学会発表…学会で発表し、その場でツッコミを受ける。ただし記録に残らないので、実際に居合わせないと確認が難しい。
    ・論文を学術誌に投稿する際の「査読」…たいていはその分野で特に知識の豊富な複数の専門家が、内容の信頼性をチェックする。
    ・他の専門家による追試や反論…論文やコメントの形で、やはり論文誌に投稿されます。
     (なお当然のことながら、反論には、元の論文よりも信頼性の高い科学的証拠が求められます。)

    こうした「科学的なチェックをどれだけくぐり抜けて認められた主張なのか、それより科学的に信頼性の高い反論があるのか」を調べるだけなら、素人でも可能です。

    ------------

    逆に、注意すべきパターンの例を幾つか挙げておきます。

    ・「学会で発表して大きな反響があった」…反論がいっぱいあった、って可能性もあるなぁ。

    ・「俺の個人サイトに載っている論文では(うんぬん)」…はぁそうですか。でも他の専門家にその主張が認められた、という証拠が見当たらないなぁ。

    ・「Arxiv.orgに論文が載ってる」…それ、査読を通過してないやん。

    ・「”○○学会”の見解では(うんぬん)」…その”○○学会”って、まともな論文誌が無いみたいだなぁ。役員や査読者も、その分野では全然まともな論文が見当たらないなぁ。

    ・「○○という論文誌で認められた」…そもそも査読が無かったり、査読者がその分野でまともな論文なかったり、内輪のごく少人数でしか読まれてなかったり、主要部分が英語じゃなかったり(=世界の専門家にチェックされにくい)…。
    一方、Nature [nature.com]とかScience [sciencemag.org]とかPNAS [pnas.org]クラスの論文誌なら、世界中で読まれてチェックされる。少なくとも実用的な意味では、「信じて」いいかも。

    ・「○○誌に載ったこの論文から、(うんぬんかんぬん)…、結局、こういう結論が導かれる」…じゃあ、この人が付け加えた「(うんぬんかんぬん)」の部分の信頼性はどうなの?

    ・「この論文では、Aは間違いかも知れない、って書いてあるよ。(うんぬん)…だから、Aは間違い。」…あれ、論拠は「かも知れない」だけなんだろ?いつの間にか断定に変わってるじゃねぇか。

    ・「○○誌に載ったこの論文では、このデータは変化していない」…実際にその論文見てみたら、「変化している」って書いてあるけど?勝手に内容を変えてるぞ、この人

    ・「その予測は、100%確実じゃない、90%だ。間違ってるかも知れないから、信じちゃいけない」…100%確実確実な未来予測なんて、元々あり得ないだろう。10%未満に掛けるなら、あんただけにしてくれ。

    ・「私は、論文は無いですが、Aは間違ってると思うんです」…ふーん。じゃあ、その論拠は?
     「確実な証拠は無いですが、あいつらはそういう立場だから、Aが合ってると主張してると思うんです」…ふーん。で、その論拠は?
     「私が、Aは間違ってると思うからです」…どうやって信頼しろってんだよ、コラ(-_-)山

    ご参考まで。

    • >NatureとかScienceとかPNASクラスの論文誌なら、世界中で読まれてチェックされる。

      まあ長期的にはそうなんですが,論文が載ったと言うだけの段階だとまだ何とも言えない部分がありますよね.
      ある程度異論があってもセンセーショナルなものだと載っちゃったりしますから(最低限のチェックは通ってますが).
      #特にNatureはその傾向が強い.

      その後に起こる議論まで含めれば悪いことではないんですが,単に「これらの論文誌に載ってる」ってだけで信じちゃうとまずいぞ,ってことで.

      親コメント
      • >その後に起こる議論まで含めれば悪いことではないんですが,単に「これらの論文誌に載ってる」ってだけで信じちゃうとまずいぞ,ってことで.

        補足感謝です。

        念のためさらに補っておきますと、
        論文では、「~である可能性がある」という程度から「~と見て間違いないだろう」というものまで、結論の確実性は色々ありえます。
        たとえば「~かも知れないから、誰か調べてクレー」という程度の論文の場合、暫く経ってから「やっぱそうじゃないみたいよ、それ」というツッコミ論文が出ることもあります。

        NatureやScienceの論文でも当然それはあり得ますので、どの程度確実な結論なのか、ちゃんと確認する必要があります。
        大抵、要約(Abstract)の部分を読めば確認できます。本文閲覧が有料の論文は多いけど、その場合でも要約は誰でも無料で読めるものが多いです。

        親コメント
    • ○○誌に載ったこの論文から、(うんぬんかんぬん)…、結局、こういう結論が導かれる」…じゃあ、この人が付け加えた「(うんぬんかんぬん)」の部分の信頼性はどうなの?

      「うんぬんかんぬん」が確認されるまでは仮説ってだけで別におかしくはないな。
      その後のも同様。ただの仮説。
      確認されるまでは、ただの仮説。ただそれだけだよ。

      どうやって信頼しろってんだよ、コラ(-_-)山

      それが信頼できる程度に信頼すればいいじゃん。

      親コメント
  • by NOBAX (21937) on 2011年04月10日 11時09分 (#1933825)
    一般的原理を導くにあたって、
    事例を収集するわけですが、
    事実として信じることから始まりますからね

    公理の辺りまで来ると、同じ土俵に乗るか
    ということが前提になりますしね。
  • by ken2 (27347) on 2011年04月10日 12時13分 (#1933863)

    「私は見た。しかし信じられない」

    数学者カントールが「直線上の『点の数』は、平面上の『点の数』と『等しい』」と証明してしまったことを数学者デーデキントに伝えた手紙の一文だそうです。
    #二重括弧の言葉は厳密な定義があるけどそこは置いておいて。

    物理学でも、「計算はできて答えは求まるが意味は分からない」という領域もあるし、まあ、理解できる部分、信じてる部分、本当は間違ってる部分、etc...がマーブル模様になっているってのが普通なんでしょうね。

    学者はマーブル模様の境界をなるべく自覚的に峻別したいと考えてる人たちなんでしょうね。

  • 科学者をまねればいい (スコア:2, すばらしい洞察)

    by Anonymous Coward on 2011年04月10日 19時29分 (#1933986)

    追試してないと聞いたらとりあえず話だけにしておく。
    追試に成功したと聞いたらとりあえず正しいことにしておく。
    追試に失敗したと聞いたらとりあえず正しくないことにしておく。
    それ以上の基準を求めるから信じるとか信じないとかになる。

  • 科学はつまるところ、自然を解き明かすことでもあります。

    たとえば私たちはまだ、自分たち自身を構成する元素がどうやって出来たのか、そもそもこの宇宙がどうやって出来たのか、まだ「完全には」理解していません。私たちには知らないこと、予測できないことがたくさんあります。その意味で、科学は「完全」ではありません。

    でも、今こうやってパソコンを製造して使ったり、宇宙や海底を経由して地球の裏側と通信したりできる程度には、自然を理解しています。なぜ重力場が変わると時間の進み方が変わるのかは(かのアインシュタインでも)「完全には」わかっていませんが、「どのぐらい」変わるのかは分かりますし、GPS等を通じて私たちの身近で使われています。そういう意味で、科学は「実用的」です。

    逆に言えば、「科学」は「完全である」必要はありません。「実用的な信頼性を持つかどうか」が、一つの評価基準となります。

    天気予報を例に挙げれば、100%確実ではなくても、スパコンを駆使することで統計的にある程度の確度を持っており、それなりに実用になっています。
    逆に、十分な信頼性のある論拠に基づかずに「明日は晴れると俺は信じる」と主張するのは、科学ではありません(たぶん、単なる個人的希望の表明か何かでしょう)。

    ではもっと複雑な話で、地球温暖化(気候変動)の予測ではどうでしょう。
    これまたスパコンを使います。天気予報のような「○○市の○月○日何時頃の天気」みたいな細かい予測は無理ですが、「地球全体がどのぐらいの速さで暖まるか」という大雑把な話ならば、意味のある確度を持って予測できるだろう [nies.go.jp]と見られています。
    逆に、十分な信頼性のある論拠に基づかずに「そんな予測は嘘だと俺は信じる」と主張するのは、科学ではありません。

    この例からも分かるとおり、「(誰か個人が)信じてるかどうか」を「科学的かどうか」を同列に論じると、議論の正確さを欠くでしょうね。

    # ”誰かがそう信じたから”科学的事実が変わるのなら、誰も苦労しませんわ。

  • by inoua (33235) on 2011年04月10日 20時40分 (#1934009) 日記

    以前NHKに科学者が出ていて、
    「証明できない事は宗教として話をする。証明できたら宗教ではなく成る」
    と言っていました。

  • by sladoslado (28918) on 2011年04月11日 13時03分 (#1934293)

    原題: The Demon-Haunted World
    著作: カール・セーガン
    翻訳: 青木 薫

    新潮文庫版
     邦題: 人はなぜエセ科学に騙されるのか 上・下
     たぶん絶版
    早川文庫版
     邦題: 悪霊にさいなまれる世界 上・下
     ISBN:978-4-15-050356-7 刊行日:2009/07/09

    上記、訳本は同じものです。

    科学とはなにか、科学的考え方とは何か、宗教との違いなどほぼ網羅してます。
    本書を読み、内容に関しては私としては基本的なところはほぼ同意するものです。
    他の方が読まれてどう感じるかは読まれた方それぞれかと思いますが。

  • 信じようが信じまいが (スコア:1, すばらしい洞察)

    by Anonymous Coward on 2011年04月10日 11時27分 (#1933833)
    理解できようができまいが、万人が自然法則に支配されてることは変わらないわけだし。
    量子力学を信じてないor理解してない人の身には放射能は通じない!とかだったら、実にめでたい話なんですが。

    #重箱の隅に行きすぎて社会学と化してしまった科学哲学の話は知りません。
  • by Anonymous Coward on 2011年04月10日 11時38分 (#1933838)

    本家記事のタイトルでは信仰(faith)という単語が使われていますね。 ところが、我々が科学に対して持つ気持ちを表すのには、信用(trust)という単語のほうがあっている気がします。 イメージとしては公開鍵暗号の信用の輪(Web of Trust) [wikipedia.org]です。 権威ある雑誌に何本も論文を載せている研究者の言っていることは、まあ概ね信じられるんじゃないか、などです。

    個人的には、信仰というと盲目的に信じる気持ちを表すような感じがしますが、 信用というと合理的に正しそうなものを選択するという行為を表すような気がします。

    あと、科学と宗教の最も大きな違いは、訂正が行われるかどうかでしょうね。 宗教だとずっと変わらないものがあります。教義や本尊などですね。 これらが変わると宗教としてのアイデンティティが崩れてしまうので、 変わらないというよりは変えられないものでしょうね。

    科学だと、ある日突然天地がひっくり返るようなことが起こります。 文字通り、天動説 vs 地動説の話や、逆転写酵素の発見などですね。 セントラルドグマ(中心教義)として、遺伝情報は DNA から RNA への転写によって一方向にのみなされると 信じられてきましたがひっくり返りましたね。 あと、雑誌の最後には errata がたいていついています。 そういった、修正をどんどん取り入れて、間違っていることを正していく機構が、科学には内蔵されていると思います。 ここが、宗教との最も大きな違いだと思います。

    • by SIGLAL (37805) on 2011年04月10日 11時53分 (#1933853)

      宗教だって変わっていくものじゃないかなぁ。
      組織化されて権威のある方々が登場すると
      面子とか、力関係で変えられない所も出てくるけど
      それは宗教/科学の区別とは違うところから生じてくる問題じゃないかしら。

      「上から与えられたものだから正しい」の理屈が強制されず
      誰もが知性的に反論できるのが科学的で、民主的であって
      日本の社会もその様にありたいと思う。

      # 今日は統一地方選挙です

      親コメント
  • 飛行機のパイロットは雲の中を飛んでいるときに自機は水平飛行してると感じていても水平儀が斜めだと表示したら「自分は空間識失調だ。機械の表示のほうが正しい」と判断して操縦するのが正解だとか。

    卑近な例では、テスターで電圧を測って1.8Vとか表示されたときに、それが他のポイントの電圧やオームの法則と矛盾しない妥当な値だったら、1.8Vだと信じます。指で触って「このかすかなピリピリ感は1.8じゃなくて1.9Vのはず(キリッ」なんてことはないわけで。

    紫外線の日焼けとか熱射病の兆候とかは人間はだいたい自覚できますが、放射線は致死レベルにでもらなら無い限り体感できませんからね。 人間の五感で体感出来ないものに対して、計測値と物理法則と、過去の経験(疫学調査結果など)を信じるのが科学じゃないですかねぇ。もちろん、誤計測も理論の誤りもあり得るので留保付きの「信じる」ではありますが。

  • 原発を理解している人はいないと言っても差支えないだろう。ほんの一か月前まで、日本人の大半は安全神話を信じていた。「神話」は、事実ではないからこそ神話なのであり、単なるテクノロジーである以上、事故は起こる。しかし原発は危険だと言えば大学では教授になれずに冷遇され、市民が反対すれば左翼だと言われた。マスコミはCMを電力会社に売って、原発をクリーンだと言ってきた。

    我々は専門家の言う事を、それを言うのが東大の教授か、それとも、他の大学の冷遇された立場の人間かという「地位」で判断して、御用学者の言う事を信仰した。しかし、原発は絶対に事故を起こさないというのは、疑似科学も同然だった。自分で原発を理解しようとしなかったツケを今、日本の国民は払わされている。”安全だから事故が起きた時の事など考慮する必要はない”のごときトンデモを信じたのは、カルト宗教を信じたのも同然の悲惨な結果を招いたのである。

    量子力学は証明されているというより「こう仮説を立てると説明がつけやすい」というだけの話だと理解している。もっとうまく説明できる仮説にとって代わられる事もあるし、解明される日が来るのかどうかは分からないが、「まあ、今のところはこう考えておいていいだろう」「そう考えておけば大きな矛盾は生じない」程度に考えておく方が。

    私は科学は好きだが、科学には限度もあると思う。全てが今の科学で説明できるわけではない。今の科学で信じられている事なんか、100年後の人間が知ったら、大笑いされそうな間違いだった、となるかもしれない。原発は安全、は50年持たなかったし。ビッグバンも熱力学第二も宇宙の事も、証明はできないし最新の理解をする事も難しい。将来はどんな説が信じられているかわからない。つまり今は間違いを信じているかもしれないって事。

    同様に「自分は科学の素養がある」と思っている人間は自問するといいだろう。「原発を安全だと言われて信じたようなのと似たような思い違いを他の科学分野でもしていないか」「科学者の言う事を信仰しているだけではないか」と。自分で学び、考え、理解しようと努力しないなら、その科学分野については単に信仰しているだけと一緒、と自戒を込めて考えたほうがいいんじゃないかな。全ての科学分野で知識を得る前に老いてしまうので、必要 or 役に立つ or 興味深い科学にちょっと手を出すのがやっとだが。
  • まず、モノゴトの尤度をture/falseの二値でしか認識できない奴を情弱と定義する。
    この定義に従えば、情弱にとって科学を含むモノゴトは信じるか信じないかのどちらかにしかならない。

    しかし、つまりアナログな尤度のままモノゴトを認識する、情弱ではない者にとって、科学とは「信じること」なのか?などという問いかけは無意味だ。単にモノゴトに尤度がくっついているだけだからな。

typodupeerror

海軍に入るくらいなら海賊になった方がいい -- Steven Paul Jobs

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