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無神論教の信者って事?
科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。説明されている内容が観測結果に一致するとしても、それは直ちに説明が正しいことを証明するものではない。そうしてみると、正しいと証明されている説明はとても少ない。単に、もっとも説得力のある説明に過ぎない。
活動に差が無いってことは、聖書に説得力を感じるのも科学論文に説得力を感じるのも、脳の認識的には大差ないってことでしょう。観測される世界、例えば生命、の起源に神を用いた説明を試みるか、化学的進化を用いた説明を試みるかも、脳の活動に大差ないかもしれませんね。
ホント、こんな記事を読むと科学と宗教の間に壁なんてあるのかと思ってしまう。
>科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。>説明されている内容が観測結果に一致するとしても、それは直ちに説明が正しいことを証明するものではない。>そうしてみると、正しいと証明されている説明はとても少ない。単に、もっとも説得力のある説明に過ぎない。
そうですよ。ただ、その説明は「何千年もの積み重ね」られてきたもので、相互に「事実と事実の結びつき」を確認されてきたものです。「多くの人間が考え抜いた結果、今のところは一番正しい事実に近いであろう」説明です。そして、人類はまだ「科学」以上に使い勝手の良い道具を手に入れてはいません。
>ホント、こんな記事を読むと科学と宗教の間に壁なんてあるのかと思ってしまう。
沢山の壁がありますよ。そのなかでももっとも厚い壁は「科学はつねに検証を受け続けている」というところでしょう。
釈迦やキリストやムハンマド(敬称略・誕生年順)は確かに英知あふれる哲学者だったのでしょう。しかし、我々が彼らの知見を知るには彼らの弟子と、その後の解説者・解釈者といった数名から数十名の人々だけの力しか借りる事が出来ません。写本の途中で書き写し間違いがあったかもしれませんし、後の社会環境の変化により間違って認識された事もあるでしょう。でも、宗教を「信じる」人はそれを鵜呑みにするしかありません。数人の肩車、それもあまり信用できない人の肩車の上から世界を眺めるようなものです。
かたや科学は有史以来、数万数十万数百万の研究者たちが互いに発見し理論を作り批判し訂正し修正して知を集積しそれらを統合して巨大な山脈となっているのです。先人の知恵や思考は捨てられることなくその一部になり、仮に誤っていてもそれはいずれは発見され反証され修正されるのです。これによって、我々は知の巨人の肩の上に立ってはるか彼方まで見渡す事が出来るのです。
どっちを選びますか?精神的平安を得よう、というのなら別にどちらでも構わないでしょう。しかし、世界を理解しよく知ろうとするのならば、僕は科学を選びます。それも大急ぎで。
宗教的価値観による愚行を肯定するわけではないですが、若干宗教を軽んじすぎているように思えます。仏教やキリスト教、イスラム教も長年の間無数の神学者や僧たちが解釈を巡って激しい論争を繰り広げてきています。(ヒンドゥー教は宗教者の知り合いが居ないので解りませんが、おそらく同様なのではないかと)しばしばかつての宗教的価値観による誤りを認める事もあります。
他方、「宗教による権威主義」による害悪は、「科学による権威主義」と同等に害悪をもたらします。かつての理解・解釈に固執するあまり、現実問題に対して適切な対応が出来ないことがあるのは科学も宗教も同様です。また、事実解明を行うための批判的態度が科学的態度であるように、神の教えや教義にいかに忠実であり得るかに対する批判的態度も宗教的態度であり得るでしょう。
宗教家による心のあり方へのメッセージは価値中立的な科学には付与することが不可能な安寧をもたらす事もあります。世界のあり方を理解するために宗教を利用する事は適切なアプローチではないと思いますが、それ以外の問題に対する有益な面を培ってきた事は肯定すべきでしょう。
そんな哲学レベルの話しではありませんよ。ヒトの認識というもっと即物的な、大脳生理レベルでの話。ヒトが何かを信じるに足ると認識するとき、それが科学なのか宗教なのかを区別しているのかと言うことです。
例えば雪の結晶が6角形なのは広く知られていることですが、実際に顕微鏡を覗いて雪の結晶を見た人の数は、雪の結晶が6角形だと知っている人の数よりずっと少ない。大多数の人は写真を見たりすることで『6角形である』ことに十分な説得力を感じるから、自身で検証することなくそれを受け入れる。では顕微鏡を覗いたことの無い大多数の人たちは、雪が6角形だと言うことを知っているのか、6角形だと信じているのか、どっちでしょう。
自身で検証することなく説得力を基準に信じるに足るかどうか判断するなら、そこに科学と宗教の壁はあるのでしょうか。トピの元記事を読む限りでは、あまり区別されていないようではありますが。昔から「科学も宗教である」と言われていたことが大脳生理のレベルで検証された、と言うことだろうとわたしは捉えてます。
「科学も宗教である」が検証されたのでしょうか?
検証されたのは、「科学知識も宗教知識も同じ仕組み (脳構造) で処理される」と言うことだと思います。
科学的プログラムと宗教的プログラム、どちらも同じモデルのハードウェアで実行している、みたいな話でないかな。
「誤っている知識に基づいて答えを出した」時と、「正しい知識に基づいて答えを出した」時に脳の働きは違わない、事を明らかにした、と解釈する方が適切かもしれませんね。例えば、アメリカの首都を選べという選択問題に対し、正しくワシントンと記憶している人と、誤ってニューヨークだと記憶している人に選択を行わせれば、脳は同じような働きをするでしょう。他方、記憶に依存して答えを導出するときに、脳の働きが記憶の真偽に依存して異なっているのであれば、答えを導出する人間の脳の動きを観測することで、この世の全ての真偽を判定することが出来てしまいます。私は人間の脳がそのような万能機構あるはずが無いと考えており、この研究はその考えを支持するものと理解しました。
そして、この研究はあくまでの脳の働きについての研究であり、科学と宗教そのものの差異については何も語っていないと思います。著者の意図はわかりませんが、私はこの研究が宗教と科学の関係に何らかの意味を持つとは思えませんし、あえてそのような誤解を招きやすい例を持ってきた著者のセンスにいささか疑問を感じます。
例えば雪の結晶が6角形なのは広く知られていることですが、実際に顕微鏡を覗いて雪の結晶を見た人の数は、雪の結晶が6角形だと知っている人の数よりずっと少ない。
まあ肉眼でも六角形であることぐらいはわかる程度に見えますからねえ。
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「科学者は100%安全だと保証できないものは動かしてはならない」、科学者「えっ」、プログラマ「えっ」
ん? (スコア:0)
無神論教の信者って事?
Re: (スコア:3, おもしろおかしい)
Re: (スコア:2, 興味深い)
科学って成り立たないと思うのですよ。
それは宗教に対する盲信と、ほとんど同じようにも思えます。
実際、科学に反する物の不在を証明することはできないですよね。
悪魔の証明になっちゃうから。
# 今まで生きてきて、科学で証明できない事象には出会ったことないですけどね。
Re: (スコア:0)
科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。
説明されている内容が観測結果に一致するとしても、それは直ちに説明が正しいことを証明するものではない。
そうしてみると、正しいと証明されている説明はとても少ない。単に、もっとも説得力のある説明に過ぎない。
活動に差が無いってことは、聖書に説得力を感じるのも科学論文に説得力を感じるのも、脳の認識的には大差ないってことでしょう。
観測される世界、例えば生命、の起源に神を用いた説明を試みるか、化学的進化を用いた説明を試みるかも、脳の活動に大差ないかもしれませんね。
ホント、こんな記事を読むと科学と宗教の間に壁なんてあるのかと思ってしまう。
相対化は誤魔化してるだけ (スコア:1, すばらしい洞察)
>科学なんて、観測された事象に対する後付けの説明でしかない。
>説明されている内容が観測結果に一致するとしても、それは直ちに説明が正しいことを証明するものではない。
>そうしてみると、正しいと証明されている説明はとても少ない。単に、もっとも説得力のある説明に過ぎない。
そうですよ。ただ、その説明は「何千年もの積み重ね」られてきたもので、相互に「事実と事実の結びつき」を確認されてきたものです。
「多くの人間が考え抜いた結果、今のところは一番正しい事実に近いであろう」説明です。
そして、人類はまだ「科学」以上に使い勝手の良い道具を手に入れてはいません。
>ホント、こんな記事を読むと科学と宗教の間に壁なんてあるのかと思ってしまう。
沢山の壁がありますよ。
そのなかでももっとも厚い壁は「科学はつねに検証を受け続けている」というところでしょう。
釈迦やキリストやムハンマド(敬称略・誕生年順)は確かに英知あふれる哲学者だったのでしょう。
しかし、我々が彼らの知見を知るには彼らの弟子と、その後の解説者・解釈者といった数名から数十名の人々だけの力しか借りる事が出来ません。
写本の途中で書き写し間違いがあったかもしれませんし、後の社会環境の変化により間違って認識された事もあるでしょう。
でも、宗教を「信じる」人はそれを鵜呑みにするしかありません。
数人の肩車、それもあまり信用できない人の肩車の上から世界を眺めるようなものです。
かたや科学は有史以来、数万数十万数百万の研究者たちが互いに発見し理論を作り批判し訂正し修正して知を集積しそれらを統合して巨大な山脈となっているのです。
先人の知恵や思考は捨てられることなくその一部になり、仮に誤っていてもそれはいずれは発見され反証され修正されるのです。
これによって、我々は知の巨人の肩の上に立ってはるか彼方まで見渡す事が出来るのです。
どっちを選びますか?
精神的平安を得よう、というのなら別にどちらでも構わないでしょう。
しかし、世界を理解しよく知ろうとするのならば、僕は科学を選びます。それも大急ぎで。
Re:相対化は誤魔化してるだけ (スコア:1)
宗教的価値観による愚行を肯定するわけではないですが、若干宗教を軽んじすぎているように思えます。
仏教やキリスト教、イスラム教も長年の間無数の神学者や僧たちが解釈を巡って激しい論争を繰り広げてきています。(ヒンドゥー教は宗教者の知り合いが居ないので解りませんが、おそらく同様なのではないかと)
しばしばかつての宗教的価値観による誤りを認める事もあります。
他方、「宗教による権威主義」による害悪は、「科学による権威主義」と同等に害悪をもたらします。
かつての理解・解釈に固執するあまり、現実問題に対して適切な対応が出来ないことがあるのは科学も宗教も同様です。
また、事実解明を行うための批判的態度が科学的態度であるように、神の教えや教義にいかに忠実であり得るかに対する批判的態度も宗教的態度であり得るでしょう。
宗教家による心のあり方へのメッセージは価値中立的な科学には付与することが不可能な安寧をもたらす事もあります。
世界のあり方を理解するために宗教を利用する事は適切なアプローチではないと思いますが、それ以外の問題に対する有益な面を培ってきた事は肯定すべきでしょう。
Re: (スコア:0)
そんな哲学レベルの話しではありませんよ。ヒトの認識というもっと即物的な、大脳生理レベルでの話。
ヒトが何かを信じるに足ると認識するとき、それが科学なのか宗教なのかを区別しているのかと言うことです。
例えば雪の結晶が6角形なのは広く知られていることですが、実際に顕微鏡を覗いて雪の結晶を見た人の数は、雪の結晶が6角形だと知っている人の数よりずっと少ない。
大多数の人は写真を見たりすることで『6角形である』ことに十分な説得力を感じるから、自身で検証することなくそれを受け入れる。
では顕微鏡を覗いたことの無い大多数の人たちは、雪が6角形だと言うことを知っているのか、6角形だと信じているのか、どっちでしょう。
自身で検証することなく説得力を基準に信じるに足るかどうか判断するなら、そこに科学と宗教の壁はあるのでしょうか。
トピの元記事を読む限りでは、あまり区別されていないようではありますが。
昔から「科学も宗教である」と言われていたことが大脳生理のレベルで検証された、と言うことだろうとわたしは捉えてます。
Re:相対化は誤魔化してるだけ (スコア:1)
「科学も宗教である」が検証されたのでしょうか?
検証されたのは、「科学知識も宗教知識も同じ仕組み (脳構造) で処理される」と言うことだと思います。
科学的プログラムと宗教的プログラム、どちらも同じモデルのハードウェアで実行している、みたいな話でないかな。
の
Re:相対化は誤魔化してるだけ (スコア:1)
「誤っている知識に基づいて答えを出した」時と、「正しい知識に基づいて答えを出した」時に脳の働きは違わない、事を明らかにした、と解釈する方が適切かもしれませんね。
例えば、アメリカの首都を選べという選択問題に対し、正しくワシントンと記憶している人と、誤ってニューヨークだと記憶している人に選択を行わせれば、脳は同じような働きをするでしょう。
他方、記憶に依存して答えを導出するときに、脳の働きが記憶の真偽に依存して異なっているのであれば、答えを導出する人間の脳の動きを観測することで、この世の全ての真偽を判定することが出来てしまいます。
私は人間の脳がそのような万能機構あるはずが無いと考えており、この研究はその考えを支持するものと理解しました。
そして、この研究はあくまでの脳の働きについての研究であり、科学と宗教そのものの差異については何も語っていないと思います。
著者の意図はわかりませんが、私はこの研究が宗教と科学の関係に何らかの意味を持つとは思えませんし、あえてそのような誤解を招きやすい例を持ってきた著者のセンスにいささか疑問を感じます。
Re: (スコア:0)
まあ肉眼でも六角形であることぐらいはわかる程度に見えますからねえ。