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科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
>「科学はみんなが幸せになるためにある」これは絶対ウソだね。願望か宣伝の類だろう。
「数学的世界は実在する」ってのは、そういうものを「数学的実在」としてるんだから何も特別なことは言ってない。「情報の存在」と同じさ。
> 「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
私の場合ですが、反証の可能性を常に認めた上で様々な基礎的な理論が正しいのだろうと思っています。「科学」のコミュニティで大筋「正しい」と言われていれば正しいと思うし、新たに「間違っていた」となれば間違っていたのか、となる。そういう意味では「科学のコミュニティ」を信じている方が近いのかな。科学的に間違った方向にはいかないだろう、という信じ方。
この手の議論をややこしくするのは"科学"とか"信じる"という語の多義性、曖昧性で、特に単純な"信じる"という語を排除しないとまともな論理展開にならない場合が多いです。
>結局どこかの段階で信じなければとてもやっていけないと思います。
完全な検証や観察を自分で行っていない理論を受け入れる事は"信じる"事なのでしょうか。これは"信じる"という言葉のある意味では正しく、別の意味では不正確と言えます。"信じる"という言葉が誤解されやすいのは、それが完全な受け入れや思いこみを示す場合と、暫定的で不完全な判断を示す場合があるからだと思います。
根源的に言えば科学では信じる必要はありません。まあそれを"信じ"ても相変わらず役立つでしょうけれども。
というか、そもそも「信じる」ってどういう意味?
何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。そのためには、それを「正しい」と考えるための自分の世界の中のルールというものが必要になる(再帰的になるかも?)。そのとき、それは科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、そんなことは関係ない。必要なのは、その人にとっての真実であることだけだから。自分の中のルールが、所謂自然科学の法則に従うかどうかなんてのはわからないし。
所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。論理的であるかどうか?
私が思うに、科学と宗教の違いは形式で判断できます。 それは、その理論が、反証可能な形で提出されているかどうか、です。
つまり誰でも(適切な実験を行えば)その理論の検証が行え、 もし間違っていたら反論できるような形式をそなえたものこそが、科学的理論です。 科学を信じるというのは、ある意味では、(結論や、意味ではなく)議論の形式を尊重する ということだと思います。 そして科学に対する信仰とは、つまるところ人間の理性に対する信仰であり、 形式的、客観的な論理性に対する信仰です。
ただ、突き詰めて考えれば、科学を信じるというのも、 個々の個人の経験と直感によるものであると私は思います。 つまり、議論の形式がいくら正しくても、経験、直観とあまりに 異なるものは受け入れられないと、思います。
しかし例えば量子力学は、直感的には全く受け入れられませんが、 微小の世界を説明できる理論は量子力学しかありません。 「光は波であり粒子であり、また同様に物質も波である」 といわれても何のことだかさっぱり分かりませんし、意味もわかりませんが、 とにかくそうなのです。
その意味で、量子力学を理解することは不可能なのかもしれませんが、 いかに量子力学が実験を説明するために発展したかを理解することは可能です。 ということで、理系大学教養レベルでも読むのは大変な本だと思いますが、 朝永振一郎「量子力学I」(みすず書房)は一読の価値があると思いますので、 機会があればどうぞ。 少なくともニーチェにかぶれて 「科学なんて科学者コミュニティの、ある種の社会的合意にすぎないよ!」 なんて言っている連中を鼻で笑う程度の余裕はできます。
生物進化は専門外ですので、間違っているかもしれませんが。
「全ての生命は地球に自然に誕生した」というのを反証したければ、 そうでないと思われる例を一つ示すことができれば十分です。 要するに宇宙人を捕まえてこればOKです。 これは冗談ではなくて、最初の生命は宇宙からやってきたのではないかと いうことは真面目に議論されていて、小惑星にアミノ酸があるかなどは研究されています。 (参考: 超高温の隕石からアミノ酸を発見 [yahoo.co.jp])
生物進化についても同じで、「あらゆる生物は原始的生物から進化した」を否定したければ、 そうでないと思われない例を一つ示すことができれば十分でしょう。 しかし実際にはさらに目のような複雑な器官も、単純な受光器官から進化したことがよく分かっています。 (参考:目の進化 [wikipedia.org])
ここでむしろ問わなくていけないのは、 「人間はサルから進化したのではなく、神が創った」いう理論は、 どうやれば反証できるのか?ということでしょう。
どういう実験をして、どういう結果が得られれば(あるいはどのような化石が見つかれば) 神が創ったということが否定されるのかが、具体的に示されたときに初めて、科学的理論になりえます。 その実験が実行されるかどうかは、また別の話です。 もしそうではないなら、これは科学的理論ではないということになり、科学では扱えません。 重要なのは反証可能性であり、これは科学哲学の重要な概念です。 (参考:「科学哲学史(5) 反証主義」哲学的な何か、あと科学とか [dion.ne.jp])
実際には世界五分前仮説 [wikimedia.org]なんてものがあるくらいで、創造論者はむしろ科学であることを積極的に拒否しているみたいですね。いかなる実験や観察の結果に対しても「あたかもそうであるかのように神が創造した」と言えるのですから明らかに反証不可能です。
> 参考:「科学哲学史(5)反証主義」哲学的な何か、あと科学とかそのすぐ続きの記事にリンクしてないのはずいぶん恣意的ですね。科学哲学史(6) 反証主義の問題 [dion.ne.jp]科学哲学史(7) ポパーの決断 [dion.ne.jp]そういうのを科学的に誠実な議論の態度として見習っていいんでしょうか?
おーこれはこれは。こんな結論だったんですか。正直言って読んでませんでした。 恣意的と言われても仕方ないですね。引用があまり適切でなかったことは認めます。すみません。
さて、反論は、すでに先のコメントで書いたとおりですが、 「議論の形式がいくら正しくても、経験、直観とあまりに 異なるものは受け入れられない」 と思います。つまり その意味で、このサイトの作者が言っていることは正しいでしょう。
だからこそ、「科学を信じるというのも、 個々の個人の経験と直観によるものである」 となるのです。(直感->直観と直しました) だから私は「科学だから正しい」とか「科学的理論だから正しい理論だ」 という言い方は避けてきました。それはやっぱり個人が決めることだからです。「決断」ですね。 もちろん私は現代科学を信じています。 標準的な蛍光灯の光はいくら浴びても日焼けせず、 山に登るとそれほど浴びたつもりもないのに日焼けするのは、 私の経験ですが、これを説明できるのは量子力学です。 空がなぜ青いのかを説明できる理論は、電磁気学です。
他にもいろいろ学生実験で物理実験は行ってきましたが、 正しく実験を行えば、正しく答えがでてきます。 間違っているときはやはり何かが間違っていました。 それでも、正しいと思った結果がでてきた時点で、実験の改良をやめてしまうという問題が残ります。 これを克服するために、物理実験では答えを見ずに解析する、ブラインド解析 が主流になっていますし、二つの解析グループに同じデータを解析させて、 二つのグループで情報交換させないようにする、ということも行われています。
逆に私は、科学懐疑論者に問いたいのですが、 さまざまな社会基盤にある科学の成果を否定 するなら、一体どうして普通に社会生活を送れるのでしょうか。 このサイトの作者に問いたいのは、あなたが意見を公表している Webサイトは、トランジスタや、他の集積回路、そしてハードディスクの 成果の上に成り立っているのではないのでしょうか。 そしてそれらは半導体物性の理解や、磁性に対する理解なしには成り立たないものです。 そういった科学の成果を認めつつ一方で科学を否定するというのは、 私には自己矛盾を起こしているように見えるのです。
私は、格好つけて言えば、科学的真理の奴隷であり、論理と理性の奴隷です。 現代人は多かれ少なかれ、そうなってしまうのだと思います。 まずはそのことを認識することが軽薄な科学懐疑論を克服するための 鍵になると思います。
反証可能というのは「反証したい人に反証方法を教えてやる」という意味じゃない。甘ったれるな。
進化なんて、すでに反証方法がネタ切れになってしまった実例だろう。
>所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。
科学と宗教が異なる事が最大の違いです。科学は現実世界との整合を求める論理からなる体系ですが、宗教はそうではありません。
この文脈では"信じる"と"受け入れる"の違いは問題にならないでしょう。人間が外部から得た情報を納得して受け入れるという意味では同じです。
>何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。科学では判断の基準とか真実とかは自分の中にあるわけではありません。理論と現実を比較して理論が現実を説明できているかを見ているだけです。
実際のところ、人にとって客観的な現実とかは別にどうでもいいもので、自分が現実だと思うものだけが真実の現実だよね。「理論」が、「自分にとっての現実」を説明できたとしたら、それは、客観的に科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、効力は同じでしょ。
客観的な現実と整合する理論の利点の一つは、それを現実の世界に適用または応用できる事です。その点で科学と宗教の効力は異なります。
そのため、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは普遍化できる考え方ではないと思います。客観的な現実に即した考え方は他者と共有できるため、単なる「自分が現実だと思うもの」よりも他者にとっての価値が高くなるからです。
「自分にとっての現実」を説明できれば他者は関係ないというのでは、自己中心的ではないかと思いますね。
そういう意味じゃなく、「自分にとっての現実」以外は認識できない、と言ってるんだけどね。「他者は関係ない」のではなく、本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ、ということ。
「自分にとっての現実」以外の事も間接的には認識できる事もあるわけで、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」と、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは直接には結びつきません。むしろ、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」からこそ「客観的な現実」とか「科学」とかに価値があるわけですね。
要するに、パーソナルリアリティってやつか。
s/「客観的な現実」/「客観的だと思う現実」/
そういえば、仏教は発祥は倫理道徳の類として、イスラム教は法律として作られたのではないかと思える節がありますね。それぞれの創始者は今、このような宗教という形になっているのを見たら「意図した物と違う!」と怒りそうな、そんな気がします。真相はわかりませんが、なんとなく。# 宗派の分裂については100%怒るでしょうな
だから科学だって、千年単位の時間をかければどこかの学派が宗教に化けてしまう可能性も否定できないかなと。かつてないほど記録が発達してますから、昔ほどその転換はおこりにくいとは思いますが。学説はひっくり返ることがあるものですが、検証することをやめて当然のように思い、盲信が始まれば宗教化は現実の脅威となることでしょう。
人間を納得させられる「役に立つ」「良い」「正しい」じゃ宗教と変わらん。科学は何時でも既存の理論を捨てて改良していく積りがある。そういう了解なのさ。
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192.168.0.1は、私が使っている IPアドレスですので勝手に使わないでください --- ある通りすがり
科学とは「判断しない」こと (スコア:4, すばらしい洞察)
科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
はてな支店 [hatena.ne.jp]
半信半疑を七信三疑へ (スコア:1, 興味深い)
一方向から見える事実も2方向(人間の目)で視ることで立体感を認識出来ますし
裏側に回ってみてみたり、上空から写真をとってみたり、
温度や質量等を計ることでソノモノ・事象が何であるか?
どうしてそこにあるのか?どうしたら作れるのか?に妥当な答えを出していくことは重要だと思います。
それは「現時点でのわかっている情報」から類推→応用する技術となり、社会の進歩に結びつくからです。
宗教に代わる「心の拠り所」として科学を持ってくるのは、苦が重すぎると思います。
科学的視点というのは「取り扱う商品を増やしているホームセンターの仕入れ基準」みたいなものだと思ってます。
みんなが使える・作れるモノ・出来ることを増やす。そのお手伝いをする。
「科学はみんなが幸せになるためにある」と何かの番組で言ってましたが、そんなことだと思ってます。
人間の言う事に絶対なんてあり得ませんし、人間に作ったモノで壊れないモノなんて出来やしませんよ。
(元材料物理系研究室所属)
Re:半信半疑を七信三疑へ (スコア:1)
>「科学はみんなが幸せになるためにある」
これは絶対ウソだね。
願望か宣伝の類だろう。
the.ACount
Re: (スコア:0)
その仮定の上にさらに仮定の理論を構築して前進しているような分野では、
前提となっている仮定を自己補強しながら「確信」する以外に前に進めないんじゃないですかね。
つまり自分の行き着く先は「正しい」と先駆的了解しているし、信じているんではなかろうかと。
# ある数学者は数学的世界は実在すると信じているし、それが自分では可視なものであると
# すると聞いたことがあります。これも確信したが故の所為ですよね
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
でも、それ以外の部分は、「今のところ誰からも否定されてない」の領域。 この中には、信じるどころか、極端なところでは「とうてい信じられないが、渋々ながら納得せざるを得ない」なんかを含んでいたり。先端物理にかかわってない人から見た相対性理論やら量子力学やら、パラドックスの例 [wikipedia.org]にもちょこっと出てくるような「信じがたい変な数学の定理シリーズ」やら。
なのでまあ、どっちかというと、「信じなくても良いよ」が科学の本質かと思ってます。
Re: (スコア:0)
科学論文の全てを自分で確かめたのか?あらゆる数学公式を厳密に確かめたのか?
百億の実験をして確かめたが、次の実験でおかしなデータが得られない保証は?
なるほどそうだ納得した、という判断の根っこにあるのはなに?
強く強く信じる、確信する、なんなら、一例を確かめて、さらに確信を深めるってだけだろ。
強力な確信の体系を、何かこの世の真理そのものと思って
それにそぐわないあらゆることをトンデモとアホの様に批判する奴が増えてきたなぁ
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
「数学的世界は実在する」ってのは、そういうものを「数学的実在」としてるんだから何も特別なことは言ってない。
「情報の存在」と同じさ。
the.ACount
Re: (スコア:0)
> 「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
私の場合ですが、反証の可能性を常に認めた上で様々な基礎的な理論が正しいのだろうと思っています。
「科学」のコミュニティで大筋「正しい」と言われていれば正しいと思うし、新たに「間違っていた」となれば間違っていたのか、となる。
そういう意味では「科学のコミュニティ」を信じている方が近いのかな。
科学的に間違った方向にはいかないだろう、という信じ方。
"信じる"の曖昧性、科学的な判断 (スコア:1)
この手の議論をややこしくするのは"科学"とか"信じる"という語の多義性、曖昧性で、特に単純な"信じる"という語を排除しないとまともな論理展開にならない場合が多いです。
>結局どこかの段階で信じなければとてもやっていけないと思います。
完全な検証や観察を自分で行っていない理論を受け入れる事は"信じる"事なのでしょうか。
これは"信じる"という言葉のある意味では正しく、別の意味では不正確と言えます。
"信じる"という言葉が誤解されやすいのは、それが完全な受け入れや思いこみを示す場合と、暫定的で不完全な判断を示す場合があるからだと思います。
根源的に言えば科学では信じる必要はありません。まあそれを"信じ"ても相変わらず役立つでしょうけれども。
Re: (スコア:0)
というか、そもそも「信じる」ってどういう意味?
何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。
そのためには、それを「正しい」と考えるための自分の世界の中のルールというものが必要になる(再帰的になるかも?)。
そのとき、それは科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、そんなことは関係ない。必要なのは、その人にとっての真実であることだけだから。
自分の中のルールが、所謂自然科学の法則に従うかどうかなんてのはわからないし。
所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。論理的であるかどうか?
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:3, すばらしい洞察)
私が思うに、科学と宗教の違いは形式で判断できます。 それは、その理論が、反証可能な形で提出されているかどうか、です。
つまり誰でも(適切な実験を行えば)その理論の検証が行え、 もし間違っていたら反論できるような形式をそなえたものこそが、科学的理論です。 科学を信じるというのは、ある意味では、(結論や、意味ではなく)議論の形式を尊重する ということだと思います。 そして科学に対する信仰とは、つまるところ人間の理性に対する信仰であり、 形式的、客観的な論理性に対する信仰です。
ただ、突き詰めて考えれば、科学を信じるというのも、 個々の個人の経験と直感によるものであると私は思います。 つまり、議論の形式がいくら正しくても、経験、直観とあまりに 異なるものは受け入れられないと、思います。
しかし例えば量子力学は、直感的には全く受け入れられませんが、 微小の世界を説明できる理論は量子力学しかありません。 「光は波であり粒子であり、また同様に物質も波である」 といわれても何のことだかさっぱり分かりませんし、意味もわかりませんが、 とにかくそうなのです。
その意味で、量子力学を理解することは不可能なのかもしれませんが、 いかに量子力学が実験を説明するために発展したかを理解することは可能です。 ということで、理系大学教養レベルでも読むのは大変な本だと思いますが、 朝永振一郎「量子力学I」(みすず書房)は一読の価値があると思いますので、 機会があればどうぞ。 少なくともニーチェにかぶれて 「科学なんて科学者コミュニティの、ある種の社会的合意にすぎないよ!」 なんて言っている連中を鼻で笑う程度の余裕はできます。
Re: (スコア:0)
どう言うプロセスで反証したい人は反証すればいいの?
あと、あらゆる生物が進化したことになっているが
これを否定したい人はどんな実験すればいいの?
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:2)
生物進化は専門外ですので、間違っているかもしれませんが。
「全ての生命は地球に自然に誕生した」というのを反証したければ、 そうでないと思われる例を一つ示すことができれば十分です。 要するに宇宙人を捕まえてこればOKです。 これは冗談ではなくて、最初の生命は宇宙からやってきたのではないかと いうことは真面目に議論されていて、小惑星にアミノ酸があるかなどは研究されています。 (参考: 超高温の隕石からアミノ酸を発見 [yahoo.co.jp])
生物進化についても同じで、「あらゆる生物は原始的生物から進化した」を否定したければ、 そうでないと思われない例を一つ示すことができれば十分でしょう。 しかし実際にはさらに目のような複雑な器官も、単純な受光器官から進化したことがよく分かっています。 (参考:目の進化 [wikipedia.org])
ここでむしろ問わなくていけないのは、 「人間はサルから進化したのではなく、神が創った」いう理論は、 どうやれば反証できるのか?ということでしょう。
どういう実験をして、どういう結果が得られれば(あるいはどのような化石が見つかれば) 神が創ったということが否定されるのかが、具体的に示されたときに初めて、科学的理論になりえます。 その実験が実行されるかどうかは、また別の話です。 もしそうではないなら、これは科学的理論ではないということになり、科学では扱えません。 重要なのは反証可能性であり、これは科学哲学の重要な概念です。 (参考:「科学哲学史(5) 反証主義」哲学的な何か、あと科学とか [dion.ne.jp])
Re: (スコア:0)
実際には世界五分前仮説 [wikimedia.org]なんてものがあるくらいで、創造論者はむしろ科学であることを積極的に拒否しているみたいですね。
いかなる実験や観察の結果に対しても「あたかもそうであるかのように神が創造した」と言えるのですから明らかに反証不可能です。
Re: (スコア:0)
> 参考:「科学哲学史(5)反証主義」哲学的な何か、あと科学とか
そのすぐ続きの記事にリンクしてないのはずいぶん恣意的ですね。
科学哲学史(6) 反証主義の問題 [dion.ne.jp]
科学哲学史(7) ポパーの決断 [dion.ne.jp]
そういうのを科学的に誠実な議論の態度として見習っていいんでしょうか?
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:2)
おーこれはこれは。こんな結論だったんですか。正直言って読んでませんでした。 恣意的と言われても仕方ないですね。引用があまり適切でなかったことは認めます。すみません。
さて、反論は、すでに先のコメントで書いたとおりですが、 「議論の形式がいくら正しくても、経験、直観とあまりに 異なるものは受け入れられない」 と思います。つまり その意味で、このサイトの作者が言っていることは正しいでしょう。
だからこそ、「科学を信じるというのも、 個々の個人の経験と直観によるものである」 となるのです。(直感->直観と直しました) だから私は「科学だから正しい」とか「科学的理論だから正しい理論だ」 という言い方は避けてきました。それはやっぱり個人が決めることだからです。「決断」ですね。 もちろん私は現代科学を信じています。 標準的な蛍光灯の光はいくら浴びても日焼けせず、 山に登るとそれほど浴びたつもりもないのに日焼けするのは、 私の経験ですが、これを説明できるのは量子力学です。 空がなぜ青いのかを説明できる理論は、電磁気学です。
他にもいろいろ学生実験で物理実験は行ってきましたが、 正しく実験を行えば、正しく答えがでてきます。 間違っているときはやはり何かが間違っていました。 それでも、正しいと思った結果がでてきた時点で、実験の改良をやめてしまうという問題が残ります。 これを克服するために、物理実験では答えを見ずに解析する、ブラインド解析 が主流になっていますし、二つの解析グループに同じデータを解析させて、 二つのグループで情報交換させないようにする、ということも行われています。
逆に私は、科学懐疑論者に問いたいのですが、 さまざまな社会基盤にある科学の成果を否定 するなら、一体どうして普通に社会生活を送れるのでしょうか。 このサイトの作者に問いたいのは、あなたが意見を公表している Webサイトは、トランジスタや、他の集積回路、そしてハードディスクの 成果の上に成り立っているのではないのでしょうか。 そしてそれらは半導体物性の理解や、磁性に対する理解なしには成り立たないものです。 そういった科学の成果を認めつつ一方で科学を否定するというのは、 私には自己矛盾を起こしているように見えるのです。
私は、格好つけて言えば、科学的真理の奴隷であり、論理と理性の奴隷です。 現代人は多かれ少なかれ、そうなってしまうのだと思います。 まずはそのことを認識することが軽薄な科学懐疑論を克服するための 鍵になると思います。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
反証可能というのは「反証したい人に反証方法を教えてやる」という意味じゃない。
甘ったれるな。
進化なんて、すでに反証方法がネタ切れになってしまった実例だろう。
the.ACount
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
>所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。
科学と宗教が異なる事が最大の違いです。
科学は現実世界との整合を求める論理からなる体系ですが、宗教はそうではありません。
この文脈では"信じる"と"受け入れる"の違いは問題にならないでしょう。
人間が外部から得た情報を納得して受け入れるという意味では同じです。
>何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。
科学では判断の基準とか真実とかは自分の中にあるわけではありません。
理論と現実を比較して理論が現実を説明できているかを見ているだけです。
Re: (スコア:0)
実際のところ、人にとって客観的な現実とかは別にどうでもいいもので、自分が現実だと思うものだけが真実の現実だよね。
「理論」が、「自分にとっての現実」を説明できたとしたら、それは、客観的に科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、効力は同じでしょ。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
客観的な現実と整合する理論の利点の一つは、それを現実の世界に適用または応用できる事です。
その点で科学と宗教の効力は異なります。
そのため、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは普遍化できる考え方ではないと思います。
客観的な現実に即した考え方は他者と共有できるため、単なる「自分が現実だと思うもの」よりも他者にとっての価値が高くなるからです。
「自分にとっての現実」を説明できれば他者は関係ないというのでは、自己中心的ではないかと思いますね。
Re: (スコア:0)
そういう意味じゃなく、「自分にとっての現実」以外は認識できない、と言ってるんだけどね。
「他者は関係ない」のではなく、本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ、ということ。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
「自分にとっての現実」以外の事も間接的には認識できる事もあるわけで、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」と、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは直接には結びつきません。
むしろ、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」からこそ「客観的な現実」とか「科学」とかに価値があるわけですね。
Re: (スコア:0)
要するに、パーソナルリアリティってやつか。
Re: (スコア:0)
s/「客観的な現実」/「客観的だと思う現実」/
盲信してしまえば (スコア:0)
そういえば、仏教は発祥は倫理道徳の類として、イスラム教は法律として作られたのではないかと思える節がありますね。それぞれの創始者は今、このような宗教という形になっているのを見たら「意図した物と違う!」と怒りそうな、そんな気がします。真相はわかりませんが、なんとなく。
# 宗派の分裂については100%怒るでしょうな
だから科学だって、千年単位の時間をかければどこかの学派が宗教に化けてしまう可能性も否定できないかなと。かつてないほど記録が発達してますから、昔ほどその転換はおこりにくいとは思いますが。学説はひっくり返ることがあるものですが、検証することをやめて当然のように思い、盲信が始まれば宗教化は現実の脅威となることでしょう。
Re: (スコア:0)
>ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。
正直、意味がわかりません。
ちょっと極端な言い方ですが、「『役に立つ』ものの見方」でなければ科学的な見解とはいえないですよね
何かを説明できる、そして疑問をもった人間を納得させられるそういう意味での『役に立つ』ということです。
それを「良い」あるいは「正しい」というのではないですか?
そのような判断基準にかなわないまるでデタラメな妄想であってもそれは「ものの見方」の一つです。
他者に意味不明なものであったとしても。そういうものの見方を了解しておく事も科学に含まれる
とすればまったく理解できません。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
人間を納得させられる「役に立つ」「良い」「正しい」じゃ宗教と変わらん。
科学は何時でも既存の理論を捨てて改良していく積りがある。
そういう了解なのさ。
the.ACount