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本家記事のタイトルでは信仰(faith)という単語が使われていますね。 ところが、我々が科学に対して持つ気持ちを表すのには、信用(trust)という単語のほうがあっている気がします。 イメージとしては公開鍵暗号の信用の輪(Web of Trust) [wikipedia.org]です。 権威ある雑誌に何本も論文を載せている研究者の言っていることは、まあ概ね信じられるんじゃないか、などです。
個人的には、信仰というと盲目的に信じる気持ちを表すような感じがしますが、 信用というと合理的に正しそうなものを選択するという行為を表すような気がします。
あと、科学と宗教の最も大きな違いは、訂正が行われるかどうかでしょうね。 宗教だとずっと変わらないものがあります。教義や本尊などですね。 これらが変わると宗教としてのアイデンティティが崩れてしまうので、 変わらないというよりは変えられないものでしょうね。
科学だと、ある日突然天地がひっくり返るようなことが起こります。 文字通り、天動説 vs 地動説の話や、逆転写酵素の発見などですね。 セントラルドグマ(中心教義)として、遺伝情報は DNA から RNA への転写によって一方向にのみなされると 信じられてきましたがひっくり返りましたね。 あと、雑誌の最後には errata がたいていついています。 そういった、修正をどんどん取り入れて、間違っていることを正していく機構が、科学には内蔵されていると思います。 ここが、宗教との最も大きな違いだと思います。
宗教だって変わっていくものじゃないかなぁ。組織化されて権威のある方々が登場すると面子とか、力関係で変えられない所も出てくるけどそれは宗教/科学の区別とは違うところから生じてくる問題じゃないかしら。
「上から与えられたものだから正しい」の理屈が強制されず誰もが知性的に反論できるのが科学的で、民主的であって日本の社会もその様にありたいと思う。
# 今日は統一地方選挙です
個人的な感想でデータは特にないのですが、科学者とかの理系の人の方が信仰が強いという印象がありますね。何か惹かれるものがあるんでしょうか。
科学とは理解する行為だと思います。で、現実では理解が及ばない範囲がどうしても存在します。それを神や人智を超える者の領域と定義します。そのほうが思考を整理しやすいからでしょう。
そこで思考停止に陥ったものを宗教家と呼び、理解する行為を続けるものを科学者と呼ぶのではないでしょうか。
なるほど。例えば不確定性原理は人智の及ばない領域という印象がありますね。個人的には興味ないけど、そういう信仰を持つ人は理解できます。
逆に、これも個人的な感想ですが、いわゆる左巻きな方々に無神論者が多い印象もあります。人間の理性が万能だと思っているからでしょうか…。
科学的態度とは「理解できないもの」を神だの人智を超える者だのの領域に投げ捨ててしまわずに「理解できないもの」として扱う事だ。と、どこかの小説で読んだような。
理系の人の方が信仰が強い?とてもそうは思えんな。別のものを「信仰が強い」と錯覚してるんじゃない?「判断基準が確定してる」とか。
理系でも文系でも、良く考える人の方が信仰が強いんだよその逆が、ルーチンワークで宗教的な行為を行ってるだけの人
まあその辺りはカール・ポパーが言い尽くしてくれているわけですけれど,科学についての「信じている」という言明は新しい証拠が提出されたらいつでも「信じていたが違った」と言うことができるし,その方がむしろ健全であるということですからね.ある命題を「『信じる』ことを止めること」それ自体を罰しようとするかどうかが宗教と科学の違いであって,それ以外は世界の説明原理を求めるという意味では共通しているでしょう.
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ナニゲにアレゲなのは、ナニゲなアレゲ -- アレゲ研究家
信仰(faith)と信用(trust) (スコア:1, 参考になる)
本家記事のタイトルでは信仰(faith)という単語が使われていますね。 ところが、我々が科学に対して持つ気持ちを表すのには、信用(trust)という単語のほうがあっている気がします。 イメージとしては公開鍵暗号の信用の輪(Web of Trust) [wikipedia.org]です。 権威ある雑誌に何本も論文を載せている研究者の言っていることは、まあ概ね信じられるんじゃないか、などです。
個人的には、信仰というと盲目的に信じる気持ちを表すような感じがしますが、 信用というと合理的に正しそうなものを選択するという行為を表すような気がします。
あと、科学と宗教の最も大きな違いは、訂正が行われるかどうかでしょうね。 宗教だとずっと変わらないものがあります。教義や本尊などですね。 これらが変わると宗教としてのアイデンティティが崩れてしまうので、 変わらないというよりは変えられないものでしょうね。
科学だと、ある日突然天地がひっくり返るようなことが起こります。 文字通り、天動説 vs 地動説の話や、逆転写酵素の発見などですね。 セントラルドグマ(中心教義)として、遺伝情報は DNA から RNA への転写によって一方向にのみなされると 信じられてきましたがひっくり返りましたね。 あと、雑誌の最後には errata がたいていついています。 そういった、修正をどんどん取り入れて、間違っていることを正していく機構が、科学には内蔵されていると思います。 ここが、宗教との最も大きな違いだと思います。
Re:信仰(faith)と信用(trust) (スコア:2)
宗教だって変わっていくものじゃないかなぁ。
組織化されて権威のある方々が登場すると
面子とか、力関係で変えられない所も出てくるけど
それは宗教/科学の区別とは違うところから生じてくる問題じゃないかしら。
「上から与えられたものだから正しい」の理屈が強制されず
誰もが知性的に反論できるのが科学的で、民主的であって
日本の社会もその様にありたいと思う。
# 今日は統一地方選挙です
Re: (スコア:0)
個人的な感想でデータは特にないのですが、
科学者とかの理系の人の方が信仰が強いという印象がありますね。
何か惹かれるものがあるんでしょうか。
Re:信仰(faith)と信用(trust) (スコア:2, すばらしい洞察)
科学とは理解する行為だと思います。
で、現実では理解が及ばない範囲がどうしても存在します。
それを神や人智を超える者の領域と定義します。そのほうが思考を整理しやすいからでしょう。
そこで思考停止に陥ったものを宗教家と呼び、理解する行為を続けるものを科学者と呼ぶのではないでしょうか。
Re: (スコア:0)
なるほど。
例えば不確定性原理は人智の及ばない領域という印象がありますね。
個人的には興味ないけど、そういう信仰を持つ人は理解できます。
逆に、これも個人的な感想ですが、いわゆる左巻きな方々に無神論者が多い印象もあります。
人間の理性が万能だと思っているからでしょうか…。
Re: (スコア:0)
科学的態度とは「理解できないもの」を神だの人智を超える者だのの領域に投げ捨ててしまわずに「理解できないもの」として扱う事だ。と、どこかの小説で読んだような。
Re:信仰(faith)と信用(trust) (スコア:1)
理系の人の方が信仰が強い?
とてもそうは思えんな。
別のものを「信仰が強い」と錯覚してるんじゃない?
「判断基準が確定してる」とか。
the.ACount
Re: (スコア:0)
理系でも文系でも、良く考える人の方が信仰が強いんだよ
その逆が、ルーチンワークで宗教的な行為を行ってるだけの人
Re: (スコア:0)
Re: (スコア:0)
まあその辺りはカール・ポパーが言い尽くしてくれているわけですけれど,科学についての「信じている」という言明は新しい証拠が提出されたらいつでも「信じていたが違った」と言うことができるし,その方がむしろ健全であるということですからね.
ある命題を「『信じる』ことを止めること」それ自体を罰しようとするかどうかが宗教と科学の違いであって,それ以外は世界の説明原理を求めるという意味では共通しているでしょう.
Re: (スコア:0)
研究社の辞書だと信仰は3番目です。
秋葉のよく行く店が「信仰」だったらチョットやだな。
trustよりacceptanceとかacknowledgmentとかcognitionという感じだな。
Re: (スコア:0)
Re: (スコア:0)
科学の一分野であっても個人が信用するにたるほど理解を深め、検証する
ことが不可能である、ってことが今回の話の要点なんじゃないかと思います。
だから検証せずに盲信するしかないのではないか、それはすでに信仰なのでは?
というお話では?