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科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
というか、そもそも「信じる」ってどういう意味?
何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。そのためには、それを「正しい」と考えるための自分の世界の中のルールというものが必要になる(再帰的になるかも?)。そのとき、それは科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、そんなことは関係ない。必要なのは、その人にとっての真実であることだけだから。自分の中のルールが、所謂自然科学の法則に従うかどうかなんてのはわからないし。
所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。論理的であるかどうか?
私が思うに、科学と宗教の違いは形式で判断できます。 それは、その理論が、反証可能な形で提出されているかどうか、です。
つまり誰でも(適切な実験を行えば)その理論の検証が行え、 もし間違っていたら反論できるような形式をそなえたものこそが、科学的理論です。 科学を信じるというのは、ある意味では、(結論や、意味ではなく)議論の形式を尊重する ということだと思います。 そして科学に対する信仰とは、つまるところ人間の理性に対する信仰であり、 形式的、客観的な論理性に対する信仰です。
ただ、突き詰めて考えれば、科学を信じるというのも、 個
生物進化は専門外ですので、間違っているかもしれませんが。
「全ての生命は地球に自然に誕生した」というのを反証したければ、 そうでないと思われる例を一つ示すことができれば十分です。 要するに宇宙人を捕まえてこればOKです。 これは冗談ではなくて、最初の生命は宇宙からやってきたのではないかと いうことは真面目に議論されていて、小惑星にアミノ酸があるかなどは研究されています。 (参考: 超高温の隕石からアミノ酸を発見 [yahoo.co.jp])
生物進化についても同じで、「あらゆる生物は原始的生物から進化した」を否定したければ、 そうでないと思われない例を一つ示すことができれば十分でしょう。 しかし実際にはさらに目のような複雑な器官も、単
> 参考:「科学哲学史(5)反証主義」哲学的な何か、あと科学とかそのすぐ続きの記事にリンクしてないのはずいぶん恣意的ですね。科学哲学史(6) 反証主義の問題 [dion.ne.jp]科学哲学史(7) ポパーの決断 [dion.ne.jp]そういうのを科学的に誠実な議論の態度として見習っていいんでしょうか?
おーこれはこれは。こんな結論だったんですか。正直言って読んでませんでした。 恣意的と言われても仕方ないですね。引用があまり適切でなかったことは認めます。すみません。
さて、反論は、すでに先のコメントで書いたとおりですが、 「議論の形式がいくら正しくても、経験、直観とあまりに 異なるものは受け入れられない」 と思います。つまり その意味で、このサイトの作者が言っていることは正しいでしょう。
だからこそ、「科学を信じるというのも、 個々の個人の経験と直観によるものである」 となるのです。(直感->直観と直しました) だから私は「科学だから正しい」とか「科学的理論だから正しい理論だ」 という言い方は避けてきました。それはやっぱり個人が決めることだからです。「決断」ですね。 もちろん私は現代科学を信じています。 標準的な蛍光灯の光はいくら浴びても日焼けせず、 山に登るとそれほど浴びたつもりもないのに日焼けするのは、 私の経験ですが、これを説明できるのは量子力学です。 空がなぜ青いのかを説明できる理論は、電磁気学です。
他にもいろいろ学生実験で物理実験は行ってきましたが、 正しく実験を行えば、正しく答えがでてきます。 間違っているときはやはり何かが間違っていました。 それでも、正しいと思った結果がでてきた時点で、実験の改良をやめてしまうという問題が残ります。 これを克服するために、物理実験では答えを見ずに解析する、ブラインド解析 が主流になっていますし、二つの解析グループに同じデータを解析させて、 二つのグループで情報交換させないようにする、ということも行われています。
逆に私は、科学懐疑論者に問いたいのですが、 さまざまな社会基盤にある科学の成果を否定 するなら、一体どうして普通に社会生活を送れるのでしょうか。 このサイトの作者に問いたいのは、あなたが意見を公表している Webサイトは、トランジスタや、他の集積回路、そしてハードディスクの 成果の上に成り立っているのではないのでしょうか。 そしてそれらは半導体物性の理解や、磁性に対する理解なしには成り立たないものです。 そういった科学の成果を認めつつ一方で科学を否定するというのは、 私には自己矛盾を起こしているように見えるのです。
私は、格好つけて言えば、科学的真理の奴隷であり、論理と理性の奴隷です。 現代人は多かれ少なかれ、そうなってしまうのだと思います。 まずはそのことを認識することが軽薄な科学懐疑論を克服するための 鍵になると思います。
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ソースを見ろ -- ある4桁UID
科学とは「判断しない」こと (スコア:4, すばらしい洞察)
科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
はてな支店 [hatena.ne.jp]
Re: (スコア:0)
というか、そもそも「信じる」ってどういう意味?
何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。
そのためには、それを「正しい」と考えるための自分の世界の中のルールというものが必要になる(再帰的になるかも?)。
そのとき、それは科学と呼ばれるものであろうが宗教と呼ばれるものであろうが、そんなことは関係ない。必要なのは、その人にとっての真実であることだけだから。
自分の中のルールが、所謂自然科学の法則に従うかどうかなんてのはわからないし。
所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。論理的であるかどうか?
Re: (スコア:3, すばらしい洞察)
私が思うに、科学と宗教の違いは形式で判断できます。 それは、その理論が、反証可能な形で提出されているかどうか、です。
つまり誰でも(適切な実験を行えば)その理論の検証が行え、 もし間違っていたら反論できるような形式をそなえたものこそが、科学的理論です。 科学を信じるというのは、ある意味では、(結論や、意味ではなく)議論の形式を尊重する ということだと思います。 そして科学に対する信仰とは、つまるところ人間の理性に対する信仰であり、 形式的、客観的な論理性に対する信仰です。
ただ、突き詰めて考えれば、科学を信じるというのも、 個
Re: (スコア:0)
どう言うプロセスで反証したい人は反証すればいいの?
あと、あらゆる生物が進化したことになっているが
これを否定したい人はどんな実験すればいいの?
Re: (スコア:2)
生物進化は専門外ですので、間違っているかもしれませんが。
「全ての生命は地球に自然に誕生した」というのを反証したければ、 そうでないと思われる例を一つ示すことができれば十分です。 要するに宇宙人を捕まえてこればOKです。 これは冗談ではなくて、最初の生命は宇宙からやってきたのではないかと いうことは真面目に議論されていて、小惑星にアミノ酸があるかなどは研究されています。 (参考: 超高温の隕石からアミノ酸を発見 [yahoo.co.jp])
生物進化についても同じで、「あらゆる生物は原始的生物から進化した」を否定したければ、 そうでないと思われない例を一つ示すことができれば十分でしょう。 しかし実際にはさらに目のような複雑な器官も、単
Re: (スコア:0)
> 参考:「科学哲学史(5)反証主義」哲学的な何か、あと科学とか
そのすぐ続きの記事にリンクしてないのはずいぶん恣意的ですね。
科学哲学史(6) 反証主義の問題 [dion.ne.jp]
科学哲学史(7) ポパーの決断 [dion.ne.jp]
そういうのを科学的に誠実な議論の態度として見習っていいんでしょうか?
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:2)
おーこれはこれは。こんな結論だったんですか。正直言って読んでませんでした。 恣意的と言われても仕方ないですね。引用があまり適切でなかったことは認めます。すみません。
さて、反論は、すでに先のコメントで書いたとおりですが、 「議論の形式がいくら正しくても、経験、直観とあまりに 異なるものは受け入れられない」 と思います。つまり その意味で、このサイトの作者が言っていることは正しいでしょう。
だからこそ、「科学を信じるというのも、 個々の個人の経験と直観によるものである」 となるのです。(直感->直観と直しました) だから私は「科学だから正しい」とか「科学的理論だから正しい理論だ」 という言い方は避けてきました。それはやっぱり個人が決めることだからです。「決断」ですね。 もちろん私は現代科学を信じています。 標準的な蛍光灯の光はいくら浴びても日焼けせず、 山に登るとそれほど浴びたつもりもないのに日焼けするのは、 私の経験ですが、これを説明できるのは量子力学です。 空がなぜ青いのかを説明できる理論は、電磁気学です。
他にもいろいろ学生実験で物理実験は行ってきましたが、 正しく実験を行えば、正しく答えがでてきます。 間違っているときはやはり何かが間違っていました。 それでも、正しいと思った結果がでてきた時点で、実験の改良をやめてしまうという問題が残ります。 これを克服するために、物理実験では答えを見ずに解析する、ブラインド解析 が主流になっていますし、二つの解析グループに同じデータを解析させて、 二つのグループで情報交換させないようにする、ということも行われています。
逆に私は、科学懐疑論者に問いたいのですが、 さまざまな社会基盤にある科学の成果を否定 するなら、一体どうして普通に社会生活を送れるのでしょうか。 このサイトの作者に問いたいのは、あなたが意見を公表している Webサイトは、トランジスタや、他の集積回路、そしてハードディスクの 成果の上に成り立っているのではないのでしょうか。 そしてそれらは半導体物性の理解や、磁性に対する理解なしには成り立たないものです。 そういった科学の成果を認めつつ一方で科学を否定するというのは、 私には自己矛盾を起こしているように見えるのです。
私は、格好つけて言えば、科学的真理の奴隷であり、論理と理性の奴隷です。 現代人は多かれ少なかれ、そうなってしまうのだと思います。 まずはそのことを認識することが軽薄な科学懐疑論を克服するための 鍵になると思います。