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基礎科学をやっている人が晩年別の分野に興味を持ってトンデモな発言をして周囲を困らせるというのは昔からあった。量子力学の基礎を作ったシュレーディンガーなどはわりと成功 [amazon.co.jp]したほうだが、ニュートン [wikipedia.org]も晩年は錬金術に没頭していたらしい。最近の日本の例だと東大名誉教授の飯田先生 [nextftp.com]とか。その分野で自分ができることはやってしまったという達成だけでは飽き足らず、別の分野に果敢に挑戦するという姿勢は学者として素晴らしいと思いますが、周囲の声を聞かない「老人力」、老境に達して何かを悟ってしまった感があるのは否めません。
ただ、なにかを成し遂げた人のインスピレーションは馬鹿にしたものではないので、同時代に生きている我々が理解でない何かを予見している可能性も十分あります。ここは判断を保留して、「ふーん」ぐらいに聞いておくのがいいのではないでしょうか。
僕個人の意見としては、「生命」とはどういうものか、「進化」とはいったいどういう現象を指すのか定義をまず明らかにしないと、意味のある議論はできないだろうと思います。例えば、、
遺伝子操作によって知能を向上したり、攻撃性を減らせたりできるとは言うが、時代時代によって移り変わる異性への要求は、自己設計された進化とは呼べないのだろうか?そう考えると、キリンの首が長いのが、クジャクの尾が美しいのがなぜ自己設計された進化とは呼べないのか?
「生命」とはどういうものか
福岡伸一なんかも書いてますが、衆目の一致するような定義なんかないんじゃ。
ちなみに福岡は「生命とは自己複製するシステムである」と言っていますが、これはモノに縛られすぎで生命と生物とをしっかり区別できていないいまいちな定義だと思います。メディアから切り離して「自己複製する情報」で十分。あと、「進化」はダーウィンをダイジェストの翻訳でいいからちゃんと読めばもう何もいらないでしょう。漢字に縛られると正しく理解できないかもしれません。
もしかしてキリンは首が伸びた方がいいから首が伸びたとか、クジャクは美しい方が雌を引きつけるから美しくなったとか、進化論をそういう風に解釈してる方面のかたですか ?
ホーキング博士の「自己設計された進化」とは、自分で理想形を想定しながらDNAを直接操作し、人類の進化を人工的に行うという意味だと思われます。しかし、環境要因であれ無意識的であれ、今までの生命だって同じようなことをやってきているわけですよね?だから問題は「意識」だと思うんですね。
種の保存という目標に向かって、我々人間だって、例えば暴力的でない人間がよいのであれば、そういう人間がモテるというような社会原因の最適化が(おのおのが意識しなくても)行われていると思うんですよ。そう考えると ホーキングの言う「自己設計」の意味がだんだん分からなくなってくる。「設計」するのはいったい誰なのか?それが「我々」だとしたら、今まで行われてきたことと何が本質的に違うのか?
とそんなことを示唆したかったのですが、門外漢だし、ちゃんと考えていませんでした。 キリン、クジャクの例を出したのは確かに不適切だったかもです。
人間に関してそういった最適化は為されないと考えた方がいいでしょう。本来なら淘汰されるべき弱い個体も医療の進歩によりどんどん生き延びています。一部の動物なんかでも人間による管理なくしては種の保存ができないものもいます。人間が登場した段階で、もう自然淘汰なんて考えが通用する時代ではなくなったんですよ。
ニュートンの錬金術は良く引き合いに出されるけど、現代の科学者が漏らすタワゴトとは切り離して考えるべきだと思う。
まず、中世の人々の考え方は、近代以後の合理精神を身につけてる我々とはまったく違う、ということを頭に入れておかないと。それが良くわかるのはニュートンのほんのちょっと前の世代に生きたケプラーで、ケプラーの著作は現代人から見ればタワゴトに満ちて、その奇妙度はニュートンの錬金術の比じゃない。最近、ケプラーの「宇宙の神秘」の翻訳が復刊されたようなので読んでみるといいと思う。現代から見ればオカルトとしか言いようがない信念を持っているし合理主義からはほど遠い精神の持ち主だったけれども、そのガラクタに満ちた鋭い頭脳が、いくばくかの真実を射止めた。ニュートンはケプラーとほとんど同時代人で、似たようなオカルトを信じていても不思議は無いどころか、当時としてはそれが普通だったと見るべきじゃないかな。
たとえば、ニュートンが重力の原因を問わないとしたのは、その後の科学のあり方に大きな影響を与えたとされるけれど、実際には性格的に論争を嫌ったということと、重力を神の意志が宇宙に遍在する証と考えていた、ということ(それらしいことを漏らす書簡も残ってたハズ)があって、合理精神からはほど遠いところで重力の原因を問わなかったようだ。錬金術と並んで引き合いに出される聖書研究も、他の仕事と変わりない情熱をもって取り組んでいたようで、たぶん本人の頭の中ではすべてが同列だったんじゃなかったかと。現代人から見れば奇妙だけれどね。
錬金術については、当時化学にいてほとんど分かっていなかった、という事情も考慮しないと。化学≒錬金術だったわけで、錬金術に興味を持つというのは、それほど不自然なコトじゃなかったんだろうと思う。
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アレゲはアレゲを呼ぶ -- ある傍観者
20年前のSFみたい (スコア:1, すばらしい洞察)
Re:20年前のSFみたい (スコア:4, 興味深い)
基礎科学をやっている人が晩年別の分野に興味を持ってトンデモな発言をして周囲を困らせるというのは昔からあった。量子力学の基礎を作ったシュレーディンガーなどはわりと成功 [amazon.co.jp]したほうだが、ニュートン [wikipedia.org]も晩年は錬金術に没頭していたらしい。最近の日本の例だと東大名誉教授の飯田先生 [nextftp.com]とか。その分野で自分ができることはやってしまったという達成だけでは飽き足らず、別の分野に果敢に挑戦するという姿勢は学者として素晴らしいと思いますが、周囲の声を聞かない「老人力」、老境に達して何かを悟ってしまった感があるのは否めません。
ただ、なにかを成し遂げた人のインスピレーションは馬鹿にしたものではないので、同時代に生きている我々が理解でない何かを予見している可能性も十分あります。ここは判断を保留して、「ふーん」ぐらいに聞いておくのがいいのではないでしょうか。
僕個人の意見としては、「生命」とはどういうものか、「進化」とはいったいどういう現象を指すのか定義をまず明らかにしないと、意味のある議論はできないだろうと思います。例えば、、
遺伝子操作によって知能を向上したり、攻撃性を減らせたりできるとは言うが、時代時代によって移り変わる異性への要求は、自己設計された進化とは呼べないのだろうか?そう考えると、キリンの首が長いのが、クジャクの尾が美しいのがなぜ自己設計された進化とは呼べないのか?
Re:20年前のSFみたい (スコア:2)
「生命」とはどういうものか
福岡伸一なんかも書いてますが、衆目の一致するような定義なんかないんじゃ。
ちなみに福岡は「生命とは自己複製するシステムである」と言っていますが、これはモノに縛られすぎで生命と生物とをしっかり区別できていないいまいちな定義だと思います。メディアから切り離して「自己複製する情報」で十分。あと、「進化」はダーウィンをダイジェストの翻訳でいいからちゃんと読めばもう何もいらないでしょう。漢字に縛られると正しく理解できないかもしれません。
Jubilee
Re:20年前のSFみたい (スコア:1)
もしかしてキリンは首が伸びた方がいいから首が伸びたとか、クジャクは美しい方が雌を引きつけるから美しくなったとか、進化論をそういう風に解釈してる方面のかたですか ?
Hiroki (REO) Kashiwazaki
Re:20年前のSFみたい (スコア:2)
ホーキング博士の「自己設計された進化」とは、自分で理想形を想定しながらDNAを直接操作し、人類の進化を人工的に行うという意味だと思われます。しかし、環境要因であれ無意識的であれ、今までの生命だって同じようなことをやってきているわけですよね?だから問題は「意識」だと思うんですね。
種の保存という目標に向かって、我々人間だって、例えば暴力的でない人間がよいのであれば、そういう人間がモテるというような社会原因の最適化が(おのおのが意識しなくても)行われていると思うんですよ。そう考えると ホーキングの言う「自己設計」の意味がだんだん分からなくなってくる。「設計」するのはいったい誰なのか?それが「我々」だとしたら、今まで行われてきたことと何が本質的に違うのか?
とそんなことを示唆したかったのですが、門外漢だし、ちゃんと考えていませんでした。 キリン、クジャクの例を出したのは確かに不適切だったかもです。
Re: (スコア:0)
人間に関してそういった最適化は為されないと考えた方がいいでしょう。
本来なら淘汰されるべき弱い個体も医療の進歩によりどんどん生き延びています。
一部の動物なんかでも人間による管理なくしては種の保存ができないものもいます。
人間が登場した段階で、もう自然淘汰なんて考えが通用する時代ではなくなったんですよ。
Re: (スコア:0)
(事の善悪や,種の保存に本当に有利かは別問題です)
Re:20年前のSFみたい (スコア:1, 興味深い)
ニュートンの錬金術は良く引き合いに出されるけど、現代の
科学者が漏らすタワゴトとは切り離して考えるべきだと思う。
まず、中世の人々の考え方は、近代以後の合理精神を身につけてる
我々とはまったく違う、ということを頭に入れておかないと。
それが良くわかるのはニュートンのほんのちょっと前の世代に生きた
ケプラーで、ケプラーの著作は現代人から見ればタワゴトに満ちて、
その奇妙度はニュートンの錬金術の比じゃない。最近、ケプラー
の「宇宙の神秘」の翻訳が復刊されたようなので読んでみるといいと思う。
現代から見ればオカルトとしか言いようがない信念を持っているし
合理主義からはほど遠い精神の持ち主だったけれども、そのガラクタ
に満ちた鋭い頭脳が、いくばくかの真実を射止めた。
ニュートンはケプラーとほとんど同時代人で、似たような
オカルトを信じていても不思議は無いどころか、当時としては
それが普通だったと見るべきじゃないかな。
たとえば、ニュートンが重力の原因を問わないとしたのは、その後の
科学のあり方に大きな影響を与えたとされるけれど、実際には性格的に
論争を嫌ったということと、重力を神の意志が宇宙に遍在する
証と考えていた、ということ(それらしいことを漏らす書簡も残ってたハズ)
があって、合理精神からはほど遠いところで重力の原因を問わなかったようだ。
錬金術と並んで引き合いに出される聖書研究も、他の仕事と変わりない
情熱をもって取り組んでいたようで、たぶん本人の頭の中ではすべてが
同列だったんじゃなかったかと。現代人から見れば奇妙だけれどね。
錬金術については、当時化学にいてほとんど分かっていなかった、
という事情も考慮しないと。化学≒錬金術だったわけで、錬金術に興味を
持つというのは、それほど不自然なコトじゃなかったんだろうと思う。
Re: (スコア:0)
「プラズマ以外の大槻教授」でいいじゃないか?