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phasonの日記: 極性分子を用いたEDMの探索-電子は丸いのか?-

日記 by phason

"Improved measurement of the shape of the electron"
J.J. Hudson et al., Nature, 473, 493-496 (2011).

電子は電荷-1とスピン1/2を持つ点粒子である……古典的な量子論の範囲では.
しかし素核の分野にまで踏み込むと,実は電子にはもうちょっと複雑な特性が出てくる.量子力学では,(エネルギーが足りなくとも)短時間であれば他の粒子の生成-消滅が起こっていても構わない.電子においても,電子が(真空から仮想的に出現した)他の素粒子と相互作用するパスがいくつも考えられることから,周囲にそういった仮想粒子をまとわりつかせながら存在しているようなものである.
さてここで,電子はスピンというベクトル量を持つ.という事はある方向zが定義できて,+z方向と-z方向は必ずしも等価でなくても良い,と考えられる.という事は,前述の出現する仮想粒子の分布に偏りがあっても良いのではないか,という考えが出来るわけだ.ある正電荷を持つ仮想粒子が+z方向に出現する確率が高く,別な負電荷を持つ仮想粒子が-z方向に出現する確率が高いということはあり得ないのだろうか?もしそういうことがあれば,「電子」という,古典的には負電荷のみを持つ点粒子だと考えられていた存在に,永久双極子モーメントが出現することとなる.これが電子の電気双極子能率(Electric Dipole Moment,EDM),もしくは永久電気双極子能率(permanent EDM)と呼ばれる現象である.
このEDM,今まで検出されたことはないが,検出しようという試みは非常に多く行われている.というのも,まず第一に,このEDMが存在することは時間反転対称性の破れの直接的な検出となるからである.

CPTの定理という,Charge(電荷),Parity(鏡映対称),Time(時間)全てを反転すると物理現象は全く区別が出来ない,というものがある.これはかなり基本的なところから出てくるので,まず破れてはいないだろうと思われている.
その一方,まずP対称性が破れていることが明らかとなり(つまり,我々の世界を丸ごと鏡映対称をとったような世界は存在しない.一部の現象で鏡映対称な現象が許されないことが明らかとなった),続いてこれは大丈夫だろうと思われていたCP対称(電荷を反転し,鏡映もとる)ですらごく一部の現象で破れていることが明らかとなった.
CPTが破れておらず(と信じられ),CP対称性が破れているならば,T対称性も必ず破れていないといけない.という事は,我々の世界と,時間を反転した世界の区別が付くことを意味しているとともに,この対称性の破れが,時間がなぜ一方向に流れているのか?とか,なぜ反物質がほとんどいないのか?といった疑問に答える突破口になるのではないかと期待されている.ところがCP対称性の破れから間接的にT対称性の破れは示唆されるものの,T対称性が破れた現象は今のところ見つかっておらず,何かT対称性の破れた出来事はないか,と探索されている状況である.
さて,ここで,話をEDMに戻す.時間を反転しても,電荷分布は変わらない.その一方,スピンの向きは逆転する(スピンは自転に似たものなので,時間を反転すると逆回転になる).もしEDMが存在するなら,その双極子の向きはスピンによって規定されているはずである(なぜならスピン以外に電子には「特定の方向」を示すものが無いから).その一方,時間反転をとるとEDM=電気双極子=電荷分布は変化せず,スピンの向きは逆転しないといけない.これは互いに矛盾するので,時間反転で同じ状況に戻ることが出来ない,つまり時間反転対称性の破れの直接的な検出になるわけだ.

EDM検出の重要性の二つ目は,EDMの大きさが理論によって大きく異なる事である.現在までに確立している素粒子論,いわゆる標準模型では,EDMはほぼゼロと見なせるぐらい小さな値が予言される.これは現在の実験技術で検出可能な量より10桁以上小さく,検出は事実上不可能である.
その一方で,超対称性理論などの標準模型を超える理論の多くでは様々な新種の粒子が導入され,電子はこれら未発見粒子も仮想粒子として周囲にまといつかせていることが示唆される.そしてそれらを含めて計算すると,電子(やクォークなどの素粒子)のEDMの大きさは,標準模型より何桁も大きいという予想が得られている.つまり,EDMを検出すると言うことは,標準理論を超えた新しい理論の必要性を実験的に示すことにも繋がるわけだ.逆に,非常に高精度の実験でもEDMが検出されなければ,新理論に対する制限はどんどんきつくなっていき排除される理論も増えることになる.

さて,そんなEDMの探索だが,手法は基本的には電場中での歳差運動を用いる.
量子論的な粒子の波動関数は位相を持ち,この位相は時間変化する.何らかの手段でこの粒子のエネルギーを上げ下げすると,それに応じて位相の変化速度は速くなったり遅くなったりする.さて,この粒子がスピンを持っていて弱い磁場中に存在する場合,そのスピンの向きは歳差運動をするのであるが,この歳差運動の回転速度は位相の変化に影響される.そのため,粒子のエネルギーが上がったり下がったりすると,スピンの歳差運動も速くなったり遅くなったりするのである.
そこで,まずは粒子に磁場(というかパルスの電磁波というか)をかけてスピンの向きを揃え,そこに弱い磁場をかける.続いてその粒子に強烈な電場を印加すると,ごくごく弱いEDM(これは電気双極子のため,電場中でエネルギー差が生じる)と電場の強さの積に応じて粒子のエネルギーが変化し,歳差運動の周期が変化する.一定時間後にどのぐらいスピンが回転していたかを見れば歳差運動の大きさがわかり,それを電場の有無で比較してやれば電場によるエネルギーの変化がわかり,そこからEDMの値が計算できる,というわけである.

さて,EDMが非常に弱いことを考えると,検出を容易にするにはものすごく強烈な電場をかけるのが最も手頃である(変化は電場の強さとEDMの積に比例する).ところが人間がかけられる電場の強さは限界がある.そこで今回の論文が用いているのが,分子の内部分極を使う,という手法である.
今回の実験で用いられているのはYbFであり,価電子がFにかなり寄ってYb+-F-に近い状態となっている.1Å程度と非常に接近している原子間距離でこれだけの分極が生じるため,局所的な電場の強さはとんでもなく強い.おおよそ10GV/cm以上と言われているが,これは実験的に印加可能な100kV/cm程度を大きく上回る(つまり,それだけEDMを検出しやすくなる).この分子自体の内部電場が,分子の中の電子のEDM(存在するならば,だが)と相互作用し,スピンの歳差運動に影響を与える,と期待されるわけである.また詳細は省くが,Ybのような重原子では内殻電子における相対論効果が効いてくるので,さらに100-1000倍ぐらい検出が容易になる(重ければ重い方が良い).

というわけで実験しましたよ,という結果であるが,これまでの報告より1.5倍程度精度良く観測できたが,いまだにEDMは検出されなかった,という結果である.
(今後実験の改善により今後さらに精度は上がっていくと思われる)
そんなわけで,今のところまだ電子は丸い.なかなか丸くない姿を見せてくれないもんである.

標準理論を超える実験事実は長いこと出てきておらず,(EDMに限らず)実験精度が上がるごとに各種の「新理論」はどんどん厳しいパラメータ領域へと撤退に次ぐ撤退を余儀なくされている.果たして本当に万物理論は存在するのか?それは今検討されている超対称性理論や弦理論などの先に存在するものなのか?理論物理の人々にはなかなか厳しい時期が続いている.
#そろそろ何か標準理論をどかんと破るようなのが見つかって欲しいんですけどねぇ.

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