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父性と呼んでいいのでは?
これに一票。
母親でも、子供が生まれた瞬間に「母性本能」を持っているわけでは無いです。子供を育てるなかで、「母性本能」に目覚めていくのです。
言い換えれば、本能が「生まれつき持っている」というものであれば、「母性本能」はもともとありません。
# 子供が生まれた瞬間に「母性本能」を持つと誤解している人が多いために、# 出産後の母親が「自分には母性本能が無いのではないか」と悩むことがあります。# 母性も母乳も、赤ちゃんとの関係の中で育まれていくものです。# 最初はどちらも無いということを、あえて言いたい。
>子供を育てるなかで、「母性本能」に目覚めていくのです。
「本能(ほんのう)とは、動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことを指す。」生まれつき持ってることを証明するには、学習や経験がなくても、その行動が行える必要があります。育児の過程で「目覚めていく」ものを、学習や適応や愛着と区別できますか?できません。つまり、予め持っている母性「本能」の存在は証明できません。
個人的には、生物学的に子(仔)に対しての保護欲は本能的にあるとは思いますが、それを人間社会に適応する形で行動化するのは学習によるものだと思います。そこに本質的に性差は関係なく、より密着度が高い母親にそうした適応的行動をとる機会(あるいは育児という社会的機能を担わされる機会)が多いだけです。
そこに本質的に性差は関係なく、より密着度が高い母親にそうした適応的行動をとる機会(あるいは育児という社会的機能を担わされる機会)が多いだけです。
なぜそう断言できるのかが不明ですね。本質的に精査は無いとする根拠は何なのか?育児と言う社会的機能を担わされているのは、本能的に子に対する保護欲が強いか、発現しやすいからではないのか?
まあ、おっしゃる通り、真偽の証明は不能で、「だけです」と断言できる話でもないでしょう。
ごめんなさい、わかりにくかったかもしれないけど、最後の一文はその前の文を補足するための文章です。つまり個人的な考えの補足なので、「だけです」と書いていても、客観的あるいは断定的な事実だと主張しているわけではありません。俺はこう思うよ、ってだけで。事実無根、妄言かもしれません。
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皆さんもソースを読むときに、行と行の間を読むような気持ちで見てほしい -- あるハッカー
それを (スコア:2)
父性と呼んでいいのでは?
Re: (スコア:0)
これに一票。
母親でも、子供が生まれた瞬間に「母性本能」を持っているわけでは無いです。
子供を育てるなかで、「母性本能」に目覚めていくのです。
言い換えれば、本能が「生まれつき持っている」というものであれば、
「母性本能」はもともとありません。
# 子供が生まれた瞬間に「母性本能」を持つと誤解している人が多いために、
# 出産後の母親が「自分には母性本能が無いのではないか」と悩むことがあります。
# 母性も母乳も、赤ちゃんとの関係の中で育まれていくものです。
# 最初はどちらも無いということを、あえて言いたい。
Re: (スコア:0)
>子供を育てるなかで、「母性本能」に目覚めていくのです。
「本能(ほんのう)とは、動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことを指す。」
生まれつき持ってることを証明するには、学習や経験がなくても、その行動が行える必要があります。
育児の過程で「目覚めていく」ものを、学習や適応や愛着と区別できますか?できません。
つまり、予め持っている母性「本能」の存在は証明できません。
個人的には、生物学的に子(仔)に対しての保護欲は本能的にあるとは思いますが、それを人間社会に適応する形で行動化するのは学習によるものだと思います。
そこに本質的に性差は関係なく、より密着度が高い母親にそうした適応的行動をとる機会(あるいは育児という社会的機能を担わされる機会)が多いだけです。
Re:それを (スコア:1)
そこに本質的に性差は関係なく、より密着度が高い母親にそうした適応的行動をとる機会(あるいは育児という社会的機能を担わされる機会)が多いだけです。
なぜそう断言できるのかが不明ですね。
本質的に精査は無いとする根拠は何なのか?
育児と言う社会的機能を担わされているのは、本能的に子に対する保護欲が強いか、発現しやすいからではないのか?
まあ、おっしゃる通り、真偽の証明は不能で、「だけです」と断言できる話でもないでしょう。
Re: (スコア:0)
ごめんなさい、わかりにくかったかもしれないけど、最後の一文はその前の文を補足するための文章です。
つまり個人的な考えの補足なので、「だけです」と書いていても、客観的あるいは断定的な事実だと主張しているわけではありません。
俺はこう思うよ、ってだけで。
事実無根、妄言かもしれません。