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信頼ベースの属人的で形式的な判定もできない査読ってシステムは到底科学的には思えないんだが。科学自体が科学的根拠のない判定手段を経て成立してるならそれは信用できるのか?いわゆる研究倫理とかかなり性善説ベースで作られているように思えるが、政府やいたずらや言論規制といった攻撃からの耐性がないならそもそも結果を信用する理由はあるのか?
というわけで査読なんかやめて片っ端から公開した方がいいと思う。査読的なのは論文へのコメントとして添付する感じで。一定ポイント以上の論文だけ事実上存在するとみなされるならそんなには変わらないけど、各自で基準で判断できるのは便
数学の場合を中心に述べるが。
>信頼ベースの属人的で形式的な判定もできない査読ってシステムは到底科学的には思えないんだが。科学的であるべきなのは論文(に書かれている結果とそれを導く根拠)であるべきであって、関連することを何でも科学的(ってなんだ?)に出来るわけないでしょ。科学的な組織運営ってなんだ?寝てたら証明のアイデアを思いつくのは科学的?
>科学自体が科学的根拠のない判定手段を経て成立してるならそれは信用できるのか?出版された論文が正しいなんて思ってないよ。だからこそ、根拠となるデータを明示し、結果を導くためにど
要は大量のノイズがあって、検証が客観的に行える場合に有効って話ね。当然その過程で有用なものが切り捨てられるという事は起こりうる。数学の場合はそれはその内再発見されるとして無視すればいいかもしれないが、社会科学などでは成立しない。ある種の主張を全てゴミ扱いするような査読者が発生しうるし、査読論文で評価されるならいずれ全ての査読者がそういう人間になるという事が起き得る(フェミニズム等で起きているなどと時折言われる)。ゴミが通過した場合は比較的容易に検証可能だが、ゴミでないものが(複数の査読者に)切り捨てられた場合の検証は容易ではない。政治家や国民の政治判断に用いられるならそういうことはあってはならない。
で論文は能力のある読者によって検証した上で評価されるだけではない。そもそも検証が極めて困難な場合もそれなりにある。一般社会において(査読)論文に書かれているのでとして参照される事は多々ある。というか研究に用いる場合でなければ論文に書かれているだけで正しいとみなされる。ニュースの記事でも百科事典でもディベートでもそうでしょ。論文全て信用できなくて個別に検証すべきと社会的に認められているなら構わないが、論文というだけである程度信用できると思われている以上査読の客観性・中立性が求められる。だがんなもんは幻想。
で、検証にコストが掛かるなら元コメントで言うようにフィルターを掛ければいい話。別に全てを紙でやり取りしなきゃいけなかった時代じゃないんだから。査読したならそれはメタデータに記せばいいだけの話で、信用できるものが欲しけりゃ自分が信用できる査読者でフィルターを掛ける仕組みは別に難しくない。査読で判断する人もいれば、論文著者の所属機関で判断する人もいれば、肩書で判断する人もいるだろう。というか単純にストレージだけの問題でしかない。いい加減でもわざわざ何十ページか文字を書いたなら現代の基準では保存公開の価値はあるよ。
で研究業績の評価は匿名でもできるよ。匿名と言っても論文に名前が記されてなけりゃいいだけで、所属機関なり第三者機関なりが出した論文の記録を取ってスコア算出してもいいし、論文毎に秘密鍵で署名して求められた場合だけ自分であると証明できればいいだけ。匿名のメリットは否定的な評価がなされる主張を行える事や、内容だけが評価の対象になって客観性が保ちやすい事だね。例えば優生学が必要だの人種間の能力差があるだのホロコーストはなかっただのが事実でかつ現在とほぼ同様に白眼視されるという可能世界は考えうるが、その場合なら匿名は正しい結論にたどり着く。デメリットももちろん多いが。
で定理検証は現状でも不十分でそれなりに進歩しているのは知ってる。別に詳しくはないが。ただ計算機を作らずに計算機について語るような事は後回しにして、まずは計算機を作る事を先にするべきじゃないかという話。
最後に>いい加減な内容の「科学的な」論文って何だ?いい加減な内容の科学的な「論文」だろ。そりゃ論文だ。言い換えれば「非科学的な」論文で否定するのは「科学的」とか「まともな」とかでしょ。言葉の話で割とどうでもいいが。
定理検証の話も英語の話もそうだが、現代の研究体制の話では全体最適や長期的視野に欠けるんじゃないかという例は散見される。それは研究者や学問の自由を尊重して、各自勝手にさせてるからというのが大きい。大学という組織はあるのだが、企業のような効率追求や戦略的な最適化が行われづらい。学生への教育からして単なる力関係の結果としか思えないような無駄な内容が残されている例も見られる(第二外国語とか誰も使ってないだろうに)。で単純に査読論文やら引用数やらで業績評価。そりゃこうなる。
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長期的な見通しやビジョンはあえて持たないようにしてる -- Linus Torvalds
査読って科学的か? (スコア:0)
信頼ベースの属人的で形式的な判定もできない査読ってシステムは到底科学的には思えないんだが。
科学自体が科学的根拠のない判定手段を経て成立してるならそれは信用できるのか?
いわゆる研究倫理とかかなり性善説ベースで作られているように思えるが、政府やいたずらや言論規制といった攻撃からの耐性がないならそもそも結果を信用する理由はあるのか?
というわけで査読なんかやめて片っ端から公開した方がいいと思う。
査読的なのは論文へのコメントとして添付する感じで。
一定ポイント以上の論文だけ事実上存在するとみなされるならそんなには変わらないけど、各自で基準で判断できるのは便
Re: (スコア:0)
数学の場合を中心に述べるが。
>信頼ベースの属人的で形式的な判定もできない査読ってシステムは到底科学的には思えないんだが。
科学的であるべきなのは論文(に書かれている結果とそれを導く根拠)であるべきであって、関連することを何でも科学的(ってなんだ?)に出来るわけないでしょ。
科学的な組織運営ってなんだ?
寝てたら証明のアイデアを思いつくのは科学的?
>科学自体が科学的根拠のない判定手段を経て成立してるならそれは信用できるのか?
出版された論文が正しいなんて思ってないよ。だからこそ、根拠となるデータを明示し、結果を導くためにど
Re:査読って科学的か? (スコア:0)
要は大量のノイズがあって、検証が客観的に行える場合に有効って話ね。
当然その過程で有用なものが切り捨てられるという事は起こりうる。
数学の場合はそれはその内再発見されるとして無視すればいいかもしれないが、社会科学などでは成立しない。
ある種の主張を全てゴミ扱いするような査読者が発生しうるし、査読論文で評価されるならいずれ全ての査読者がそういう人間になるという事が起き得る(フェミニズム等で起きているなどと時折言われる)。
ゴミが通過した場合は比較的容易に検証可能だが、ゴミでないものが(複数の査読者に)切り捨てられた場合の検証は容易ではない。
政治家や国民の政治判断に用いられるならそういうことはあってはならない。
で論文は能力のある読者によって検証した上で評価されるだけではない。
そもそも検証が極めて困難な場合もそれなりにある。
一般社会において(査読)論文に書かれているのでとして参照される事は多々ある。
というか研究に用いる場合でなければ論文に書かれているだけで正しいとみなされる。
ニュースの記事でも百科事典でもディベートでもそうでしょ。
論文全て信用できなくて個別に検証すべきと社会的に認められているなら構わないが、論文というだけである程度信用できると思われている以上査読の客観性・中立性が求められる。
だがんなもんは幻想。
で、検証にコストが掛かるなら元コメントで言うようにフィルターを掛ければいい話。
別に全てを紙でやり取りしなきゃいけなかった時代じゃないんだから。
査読したならそれはメタデータに記せばいいだけの話で、信用できるものが欲しけりゃ自分が信用できる査読者でフィルターを掛ける仕組みは別に難しくない。
査読で判断する人もいれば、論文著者の所属機関で判断する人もいれば、肩書で判断する人もいるだろう。
というか単純にストレージだけの問題でしかない。
いい加減でもわざわざ何十ページか文字を書いたなら現代の基準では保存公開の価値はあるよ。
で研究業績の評価は匿名でもできるよ。
匿名と言っても論文に名前が記されてなけりゃいいだけで、所属機関なり第三者機関なりが出した論文の記録を取ってスコア算出してもいいし、論文毎に秘密鍵で署名して求められた場合だけ自分であると証明できればいいだけ。
匿名のメリットは否定的な評価がなされる主張を行える事や、内容だけが評価の対象になって客観性が保ちやすい事だね。
例えば優生学が必要だの人種間の能力差があるだのホロコーストはなかっただのが事実でかつ現在とほぼ同様に白眼視されるという可能世界は考えうるが、その場合なら匿名は正しい結論にたどり着く。
デメリットももちろん多いが。
で定理検証は現状でも不十分でそれなりに進歩しているのは知ってる。別に詳しくはないが。
ただ計算機を作らずに計算機について語るような事は後回しにして、まずは計算機を作る事を先にするべきじゃないかという話。
最後に
>いい加減な内容の「科学的な」論文って何だ?
いい加減な内容の科学的な「論文」だろ。
そりゃ論文だ。
言い換えれば「非科学的な」論文で否定するのは「科学的」とか「まともな」とかでしょ。
言葉の話で割とどうでもいいが。
定理検証の話も英語の話もそうだが、現代の研究体制の話では全体最適や長期的視野に欠けるんじゃないかという例は散見される。
それは研究者や学問の自由を尊重して、各自勝手にさせてるからというのが大きい。
大学という組織はあるのだが、企業のような効率追求や戦略的な最適化が行われづらい。
学生への教育からして単なる力関係の結果としか思えないような無駄な内容が残されている例も見られる(第二外国語とか誰も使ってないだろうに)。
で単純に査読論文やら引用数やらで業績評価。
そりゃこうなる。