科学とは「信じること」なのか? 145
ただちに理解できるレベルではない 部門より
capra 曰く、
本家/.「Is Science Just a Matter of Faith?」より。
宇宙の起源や原理、人間の進化などに関する、波動方程式や量子電磁力学、分子生物学などを含めた科学的な解説を、科学者以外の人々が理解するのは難しい。我々が物理学や天文学、生物学などにおける驚くべき複雑な科学現象を事実として認める場合、その理由ではなく、「信じる」という行為を通じて受け入れているというのが正直なところだろう。
物理学者のリチャード・ファインマンは著書「The Character of Physical Law 」で「量子力学を理解している人はいないと言っても差し支えないだろう」と書いた。この分野の本を何冊も執筆した彼自身も例外ではないということだ。 実際のところ、厳密な科学的真理や数学・象徴形式が理解できるようになるまでには何年も熱心に勉強する必要がある。そうでない我々は、真理を理解してわかりやすい言葉で説明してくれる専門家に依存することになってしまう。そこに科学と科学者にとっての大きな問題が存在する。多くの人々にとって、現実としては専門家を信用し、その話を信じることが科学ということになる。これは信仰のようなもので、理解とは程遠い。科学の言葉を理解できないなら、どうやって科学を理解できるだろうか。
「我々は科学を歴史と同様に、実践からではなく読んで記憶することにより学ぶ。 原子とは何なのかということや、ヒッグス粒子が非常に重要なものだということを本当に知っているのか。それとも誰かがそう言っていたから、そのように受け止めているだけなのだろうか。」この争点、科学的に正しくても「専門家による説明が信じられない」場合も併せて考えるとなかなか興味深くなる気がする。
科学とは「判断しない」こと (スコア:4, すばらしい洞察)
科学とは、提示されたものの見方について「良し」「悪し」「正しい」「正しくない」の判断をせずに、ただ「そういうものの見方があるのだ」ということを了解しておくだけのことだと考えています。もちろん科学的な手続きとか約束事としての正しさはあるでしょうが、それをふまえて提示される結論については「正しい」とも「正しくない」とも判断できないでしょう。それは科学的手法の発展によっていつでも反証される可能性があるわけですから。
「信じる」ということは、あるものの見方について「正しい」とか「良い」とかという判断を下して、自分の価値観と切り離せなくしてしまうことだと思います。それは、反証の可能性をつねに認めた態度とは異なります。
なので、何であれ「信じて」しまったらそれは科学とは言えないんじゃないでしょうかね。
はてな支店 [hatena.ne.jp]
半信半疑を七信三疑へ (スコア:1, 興味深い)
一方向から見える事実も2方向(人間の目)で視ることで立体感を認識出来ますし
裏側に回ってみてみたり、上空から写真をとってみたり、
温度や質量等を計ることでソノモノ・事象が何であるか?
どうしてそこにあるのか?どうしたら作れるのか?に妥当な答えを出していくことは重要だと思います。
それは「現時点でのわかっている情報」から類推→応用する技術となり、社会の進歩に結びつくからです。
宗教に代わる「心の拠り所」として科学を持ってくるのは、苦が重すぎると思います。
科学的視点というのは「取り扱う商品を増やしているホームセンターの仕入れ基準」みたいなものだと思ってます。
みんなが使える・作れるモノ・出来ることを増やす。そのお手伝いをする。
「科学はみんなが幸せになるためにある」と何かの番組で言ってましたが、そんなことだと思ってます。
人間の言う事に絶対なんてあり得ませんし、人間に作ったモノで壊れないモノなんて出来やしませんよ。
(元材料物理系研究室所属)
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
でも、それ以外の部分は、「今のところ誰からも否定されてない」の領域。 この中には、信じるどころか、極端なところでは「とうてい信じられないが、渋々ながら納得せざるを得ない」なんかを含んでいたり。先端物理にかかわってない人から見た相対性理論やら量子力学やら、パラドックスの例 [wikipedia.org]にもちょこっと出てくるような「信じがたい変な数学の定理シリーズ」やら。
なのでまあ、どっちかというと、「信じなくても良いよ」が科学の本質かと思ってます。
"信じる"の曖昧性、科学的な判断 (スコア:1)
この手の議論をややこしくするのは"科学"とか"信じる"という語の多義性、曖昧性で、特に単純な"信じる"という語を排除しないとまともな論理展開にならない場合が多いです。
>結局どこかの段階で信じなければとてもやっていけないと思います。
完全な検証や観察を自分で行っていない理論を受け入れる事は"信じる"事なのでしょうか。
これは"信じる"という言葉のある意味では正しく、別の意味では不正確と言えます。
"信じる"という言葉が誤解されやすいのは、それが完全な受け入れや思いこみを示す場合と、暫定的で不完全な判断を示す場合があるからだと思います。
根源的に言えば科学では信じる必要はありません。まあそれを"信じ"ても相変わらず役立つでしょうけれども。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:3, すばらしい洞察)
私が思うに、科学と宗教の違いは形式で判断できます。 それは、その理論が、反証可能な形で提出されているかどうか、です。
つまり誰でも(適切な実験を行えば)その理論の検証が行え、 もし間違っていたら反論できるような形式をそなえたものこそが、科学的理論です。 科学を信じるというのは、ある意味では、(結論や、意味ではなく)議論の形式を尊重する ということだと思います。 そして科学に対する信仰とは、つまるところ人間の理性に対する信仰であり、 形式的、客観的な論理性に対する信仰です。
ただ、突き詰めて考えれば、科学を信じるというのも、 個々の個人の経験と直感によるものであると私は思います。 つまり、議論の形式がいくら正しくても、経験、直観とあまりに 異なるものは受け入れられないと、思います。
しかし例えば量子力学は、直感的には全く受け入れられませんが、 微小の世界を説明できる理論は量子力学しかありません。 「光は波であり粒子であり、また同様に物質も波である」 といわれても何のことだかさっぱり分かりませんし、意味もわかりませんが、 とにかくそうなのです。
その意味で、量子力学を理解することは不可能なのかもしれませんが、 いかに量子力学が実験を説明するために発展したかを理解することは可能です。 ということで、理系大学教養レベルでも読むのは大変な本だと思いますが、 朝永振一郎「量子力学I」(みすず書房)は一読の価値があると思いますので、 機会があればどうぞ。 少なくともニーチェにかぶれて 「科学なんて科学者コミュニティの、ある種の社会的合意にすぎないよ!」 なんて言っている連中を鼻で笑う程度の余裕はできます。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:2)
生物進化は専門外ですので、間違っているかもしれませんが。
「全ての生命は地球に自然に誕生した」というのを反証したければ、 そうでないと思われる例を一つ示すことができれば十分です。 要するに宇宙人を捕まえてこればOKです。 これは冗談ではなくて、最初の生命は宇宙からやってきたのではないかと いうことは真面目に議論されていて、小惑星にアミノ酸があるかなどは研究されています。 (参考: 超高温の隕石からアミノ酸を発見 [yahoo.co.jp])
生物進化についても同じで、「あらゆる生物は原始的生物から進化した」を否定したければ、 そうでないと思われない例を一つ示すことができれば十分でしょう。 しかし実際にはさらに目のような複雑な器官も、単純な受光器官から進化したことがよく分かっています。 (参考:目の進化 [wikipedia.org])
ここでむしろ問わなくていけないのは、 「人間はサルから進化したのではなく、神が創った」いう理論は、 どうやれば反証できるのか?ということでしょう。
どういう実験をして、どういう結果が得られれば(あるいはどのような化石が見つかれば) 神が創ったということが否定されるのかが、具体的に示されたときに初めて、科学的理論になりえます。 その実験が実行されるかどうかは、また別の話です。 もしそうではないなら、これは科学的理論ではないということになり、科学では扱えません。 重要なのは反証可能性であり、これは科学哲学の重要な概念です。 (参考:「科学哲学史(5) 反証主義」哲学的な何か、あと科学とか [dion.ne.jp])
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:2)
おーこれはこれは。こんな結論だったんですか。正直言って読んでませんでした。 恣意的と言われても仕方ないですね。引用があまり適切でなかったことは認めます。すみません。
さて、反論は、すでに先のコメントで書いたとおりですが、 「議論の形式がいくら正しくても、経験、直観とあまりに 異なるものは受け入れられない」 と思います。つまり その意味で、このサイトの作者が言っていることは正しいでしょう。
だからこそ、「科学を信じるというのも、 個々の個人の経験と直観によるものである」 となるのです。(直感->直観と直しました) だから私は「科学だから正しい」とか「科学的理論だから正しい理論だ」 という言い方は避けてきました。それはやっぱり個人が決めることだからです。「決断」ですね。 もちろん私は現代科学を信じています。 標準的な蛍光灯の光はいくら浴びても日焼けせず、 山に登るとそれほど浴びたつもりもないのに日焼けするのは、 私の経験ですが、これを説明できるのは量子力学です。 空がなぜ青いのかを説明できる理論は、電磁気学です。
他にもいろいろ学生実験で物理実験は行ってきましたが、 正しく実験を行えば、正しく答えがでてきます。 間違っているときはやはり何かが間違っていました。 それでも、正しいと思った結果がでてきた時点で、実験の改良をやめてしまうという問題が残ります。 これを克服するために、物理実験では答えを見ずに解析する、ブラインド解析 が主流になっていますし、二つの解析グループに同じデータを解析させて、 二つのグループで情報交換させないようにする、ということも行われています。
逆に私は、科学懐疑論者に問いたいのですが、 さまざまな社会基盤にある科学の成果を否定 するなら、一体どうして普通に社会生活を送れるのでしょうか。 このサイトの作者に問いたいのは、あなたが意見を公表している Webサイトは、トランジスタや、他の集積回路、そしてハードディスクの 成果の上に成り立っているのではないのでしょうか。 そしてそれらは半導体物性の理解や、磁性に対する理解なしには成り立たないものです。 そういった科学の成果を認めつつ一方で科学を否定するというのは、 私には自己矛盾を起こしているように見えるのです。
私は、格好つけて言えば、科学的真理の奴隷であり、論理と理性の奴隷です。 現代人は多かれ少なかれ、そうなってしまうのだと思います。 まずはそのことを認識することが軽薄な科学懐疑論を克服するための 鍵になると思います。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
>所謂宗教を信じることと、所謂自然科学を受け入れることと、何がどう違うんだろうか。
科学と宗教が異なる事が最大の違いです。
科学は現実世界との整合を求める論理からなる体系ですが、宗教はそうではありません。
この文脈では"信じる"と"受け入れる"の違いは問題にならないでしょう。
人間が外部から得た情報を納得して受け入れるという意味では同じです。
>何かの決断をするときにはそのための基準が必要になるわけだけど、その基準は、自分が(自分にとって)「正しい」と考えたものを使うわけだよね。
科学では判断の基準とか真実とかは自分の中にあるわけではありません。
理論と現実を比較して理論が現実を説明できているかを見ているだけです。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
客観的な現実と整合する理論の利点の一つは、それを現実の世界に適用または応用できる事です。
その点で科学と宗教の効力は異なります。
そのため、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは普遍化できる考え方ではないと思います。
客観的な現実に即した考え方は他者と共有できるため、単なる「自分が現実だと思うもの」よりも他者にとっての価値が高くなるからです。
「自分にとっての現実」を説明できれば他者は関係ないというのでは、自己中心的ではないかと思いますね。
Re:科学とは「判断しない」こと (スコア:1)
「自分にとっての現実」以外の事も間接的には認識できる事もあるわけで、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」と、「客観的な現実とかは別にどうでもいい」というのは直接には結びつきません。
むしろ、「本当の意味で客観的に見るというのは不可能だ」からこそ「客観的な現実」とか「科学」とかに価値があるわけですね。
オープンソースと同じようなもの? (スコア:3, すばらしい洞察)
ソースが公開されているからバックドアは見つけ出されるし致命的なバグは迅速に修正される。
機能の追加だってユーザーの思うがまま。
……と信じはするけど大多数の人はソースなんて見もしないというか。
科学も、労力(場合によっては時間と資本も)を投入すれば自分で検証できるし間違いを見つけ出すことも出来る、新しい発見をしたり機知の知見を利用した新技術の開発だって可能。
だけれども大多数の人はそこまで検証しないし誰かが言ってることをとりあえず「まあそういうもんなんだろ」と盲信するか良く理解せずに否定するか。
Re:オープンソースと同じようなもの? (スコア:1)
そのとき想定したすべてをコンピュータ上でテストできるプログラミングと原発は同じ環境とは言いがたい。
社会的影響が大きいだけにおいそれとバグ修正がしにくいという面があるといった見方もある。 [nikkeibp.co.jp]
テストに不安はあるが予算的には仕方がない行ってみよう!という打算で動く政治的な思惑はいたるところに存在すると思う。
それは科学的ではないが、パトロンが科学者に与える予算回収の時機であり科学者にはあらがえない面があるのでは?
科学と疑似科学の距離 (スコア:3, 興味深い)
科学というものが、実際には地道なデータの積み重ねと客観的な検証・追試の数々で成り立ってるものであることをわかった上で書きますが、
最近言われてる科学的な問題に関して、余りに多くのものが「自分が正しいと言ってるのだから正しいに決まってる。反論は許さない」と言う方向に向かってる感じがするんですよね。
受動喫煙の問題とか肥満の問題とか地球温暖化の問題とか、ある所で「進歩」が止まってしまって、それ自体がある種の絶対正義になっていてそこへの異論や反証はマトモに検証もされずにどんどん疑似科学とかデマとかそういうレッテルが貼られて葬られている。地道なデータを積み重ねても、特定の結論に行き着かないものを排除することが多い気がします。
受動喫煙にしても疫学的に確固とした因果関係というのがあんましなくて、その少しの結果をWHOが「正しい」として、それを一部の政治勢力が後押しして、「もっと別の原因で癌が起きたり高血圧などを起こしたりしてるのではないか」と言う問いかけが非常に困難になってる…受動喫煙防止という命題が自己目的化して、少しでもその足を引っ張りかねない学説というのはマトモな追試がされる前から間違いだと決め付けられるのが普通になってる。
もっと酷いのは地球温暖化問題。
「地球温暖化の原因としてCO2増加があるのではなく、地球温暖化の結果としてCO2増加したのではないか」とする槌田説は、議論を起こす上で重要な学説ではあるのですが、論文の掲載も気象学会での発表も拒絶されています…そして、裁判沙汰にすらなってる
http://env01.cool.ne.jp/global_warming/teiso.htm [cool.ne.jp]
気象学会の動きというのは非常におかしなもので、特定の学説(地球温暖化はCO2増加の結果起こってるものだ)が偏重されて、そこに批判的な考察だということで槌田説が出てきたものの、これが真面目に検証される前に色々な理由を付けて排除されてる。
要は、「フリーエネルギー」とかと同様のトンデモ説だと排除してる。
クライメートゲート事件で世界規模で気象学界がデータやシミュレーション結果の捏造、主流学説に批判的な学説・学者の排除を繰り返していた事が曝露されましたが、その調子で全てが特定の学説に奉仕するかしないかで正誤が決め付けられ、結果として特定の学説のみが淘汰されずに生き延びる…そこに、客観的な視点は存在しない。
そういう感じで、今の社会を振り回してる幾つかの「科学的定説」が、実は疑似科学と同じく「正しいから正しい」と言う自己撞着に陥ってる。
そこには、科学というより科学者の権力志向とか科学者を利用して政治を動かし金儲けにつなげる人々の権力が余りに強くなってしまってる情けない現象が見受けられるのですが。
Re:科学と疑似科学の距離 (スコア:2)
科学は、「仮説を立てる」と「仮説を検証する」の大きな二段階で成り立っていると思うのですが、確かに最近、利権を優先して仮説の段階で思考停止している事例が見られますね。検証が1つもされてない物は科学ではないと思うのですが。
「プルトニウムみたいな超重たい金属が、何10kmも風に乗って飛び、人の肺に入って癌になる」
なんてことを本気で信じている人が何万人もいるのには驚きますね。
確かに可能性はゼロでは無いので、症例が1件でも出ればこれも科学扱いになってしまうのかもしれません。
「地球に隕石が落ちて氷河期になる」って映画を見てもそれが現実になると考える人はゼロだと思うのですが、違いは何なのでしょう?
ベクレルとかシーベルトのような単位が乱れ飛んでいるのが原因なんでしょうかね。
偽科学が流行る要因と同じにしか見えないのですが。
Re:科学と疑似科学の距離 (スコア:2)
>「プルトニウムみたいな超重たい金属が、何10kmも風に乗って飛び、人の肺に入って癌になる」
>なんてことを本気で信じている人が何万人もいるのには驚きますね。
逆説的な皮肉だと思いますが信じてしまう人がいると思うので補足しておきますね。
>長崎原爆に由来するプルトニウムはグリーンランドの氷柱でも発見されている。
http://www.mri-jma.go.jp/Dep/ge/2007Artifi_Radio_report/Chapter5.htm [mri-jma.go.jp]
まさかとは思いますが、一連の主張のどこか一箇所だけが間違ってることを理由に「驚いてる」とかはないですよね。
「プルトニウムみたいな超重たい金属は何10kmも風以外の何かに乗って飛び、人の肺に入って癌になる」
「プルトニウムは超重くはないけど何10kmも風に乗って飛び、人の肺に入って癌になる」
「プルトニウムみたいな超重たい金属が、何10kmも風に乗って飛ぶけど人の肺に入って癌になるかは不明」
などなど。
それじゃウソはつかないけど本当のことも言わない言葉遊び大好きなどっかの電力会社と同じですよ。
Re:科学と疑似科学の距離 (スコア:2)
>槌田説は、議論を起こす上で重要な学説
その「重要」だとする科学的な論拠はなんですか。
自説の方がそもそも科学的に正しいのだと主張されるなら、論文を通じて世界の科学者にチェックを受け、認められれば済む話です。
ところがこの槌田氏、当該分野ではインパクトファクターがついてるような論文が見当たりません。
大学や研究機関に所属されている方なら(学生も図書館等でアクセスできる方は多いでしょう)、論文データベース(Thomson ReutersのISI Web of Science等)で調べれば、すぐわかります。
>裁判沙汰にすらなってる
そして、負けておられますね。
”科学的には私の説は正しいんだ、それ以外の所で妨害を受けたんだ”式の陰謀論も、この時点で法的に否定されてます。
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世界中の何千人もの専門家が数十年かけて検証してきた報告書 [wikipedia.org]をひっくり返せるほどの信頼性のある根拠を、あなたは提示されていません。
科学的に明確な根拠を示さずに「酷い」「おかしな」等の主観的表現でごまかすのは、疑似科学の常套手段です。
Re:科学と疑似科学の距離 (スコア:1, 参考になる)
英国イーストアングリア大学により設置された独立レビュー組織による「クライメートゲート事件」レビュー結果の公表について(お知らせ) [env.go.jp](環境省)
未だにクライメートゲート事件が「データやシミュレーション結果の捏造」と、すぐ間違いだと分かるデマを広げようとするのは感心できません。
「クライメートゲート事件」は「『捏造があった』という嘘の捏造事件」です。
Re:科学と疑似科学の距離 (スコア:1, 参考になる)
槌田さんの話が却下されているのは、妨害でもなんでもなく論拠がいい加減だからです。
そもそも彼が
>地球温暖化の原因としてCO2増加があるのではなく、地球温暖化の結果としてCO2増加したのではないか
と主張したそもそもの根拠のグラフ等は、温暖化由来と思われる長期変化をさっ引いて、残りの季節変動が主となったグラフを出して「ほら、濃度変化はほとんど季節変化なんです!」と主張している物です。
確かに定説とされているものに異論を挟むのは重要なことですし、論文が載りにくくなるのは事実ですが、それは「定説とされているものにはそれなりに根拠となるデータが積み上げられているから、それを覆すって言うんなら十分なデータを示してもらわないとねぇ」という観点(ただし、一種の思い込みでありバイアスがかかっているという指摘は正しい)からです。ですから、定説に対抗しようというならきっちりした論拠を積み上げねばならないのに、槌田さんはそういうのを持っていないと言うだけの話です。いつぞや(ここ数年以内)の物理学会誌(化学会誌だったっけかなあ)に槌田さんの寄稿を載せて、翌月号でフルボッコにされていたりもします。
#槌田さん以外ではある程度の論拠を元に討論している人はいます。
「科学的かどうか」を見分けるポイント (スコア:3, 興味深い)
科学者が自説の信頼性を他の専門家にチェックして貰い、信頼性を高めるためには、下記のような手順を用います。
・学会発表…学会で発表し、その場でツッコミを受ける。ただし記録に残らないので、実際に居合わせないと確認が難しい。
・論文を学術誌に投稿する際の「査読」…たいていはその分野で特に知識の豊富な複数の専門家が、内容の信頼性をチェックする。
・他の専門家による追試や反論…論文やコメントの形で、やはり論文誌に投稿されます。
(なお当然のことながら、反論には、元の論文よりも信頼性の高い科学的証拠が求められます。)
こうした「科学的なチェックをどれだけくぐり抜けて認められた主張なのか、それより科学的に信頼性の高い反論があるのか」を調べるだけなら、素人でも可能です。
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逆に、注意すべきパターンの例を幾つか挙げておきます。
・「学会で発表して大きな反響があった」…反論がいっぱいあった、って可能性もあるなぁ。
・「俺の個人サイトに載っている論文では(うんぬん)」…はぁそうですか。でも他の専門家にその主張が認められた、という証拠が見当たらないなぁ。
・「Arxiv.orgに論文が載ってる」…それ、査読を通過してないやん。
・「”○○学会”の見解では(うんぬん)」…その”○○学会”って、まともな論文誌が無いみたいだなぁ。役員や査読者も、その分野では全然まともな論文が見当たらないなぁ。
・「○○という論文誌で認められた」…そもそも査読が無かったり、査読者がその分野でまともな論文なかったり、内輪のごく少人数でしか読まれてなかったり、主要部分が英語じゃなかったり(=世界の専門家にチェックされにくい)…。
一方、Nature [nature.com]とかScience [sciencemag.org]とかPNAS [pnas.org]クラスの論文誌なら、世界中で読まれてチェックされる。少なくとも実用的な意味では、「信じて」いいかも。
・「○○誌に載ったこの論文から、(うんぬんかんぬん)…、結局、こういう結論が導かれる」…じゃあ、この人が付け加えた「(うんぬんかんぬん)」の部分の信頼性はどうなの?
・「この論文では、Aは間違いかも知れない、って書いてあるよ。(うんぬん)…だから、Aは間違い。」…あれ、論拠は「かも知れない」だけなんだろ?いつの間にか断定に変わってるじゃねぇか。
・「○○誌に載ったこの論文では、このデータは変化していない」…実際にその論文見てみたら、「変化している」って書いてあるけど?勝手に内容を変えてるぞ、この人。
・「その予測は、100%確実じゃない、90%だ。間違ってるかも知れないから、信じちゃいけない」…100%確実確実な未来予測なんて、元々あり得ないだろう。10%未満に掛けるなら、あんただけにしてくれ。
・「私は、論文は無いですが、Aは間違ってると思うんです」…ふーん。じゃあ、その論拠は?
「確実な証拠は無いですが、あいつらはそういう立場だから、Aが合ってると主張してると思うんです」…ふーん。で、その論拠は?
「私が、Aは間違ってると思うからです」…どうやって信頼しろってんだよ、コラ(-_-)山
ご参考まで。
Re:「科学的かどうか」を見分けるポイント (スコア:1)
>NatureとかScienceとかPNASクラスの論文誌なら、世界中で読まれてチェックされる。
まあ長期的にはそうなんですが,論文が載ったと言うだけの段階だとまだ何とも言えない部分がありますよね.
ある程度異論があってもセンセーショナルなものだと載っちゃったりしますから(最低限のチェックは通ってますが).
#特にNatureはその傾向が強い.
その後に起こる議論まで含めれば悪いことではないんですが,単に「これらの論文誌に載ってる」ってだけで信じちゃうとまずいぞ,ってことで.
Re:「科学的かどうか」を見分けるポイント (スコア:1)
>その後に起こる議論まで含めれば悪いことではないんですが,単に「これらの論文誌に載ってる」ってだけで信じちゃうとまずいぞ,ってことで.
補足感謝です。
念のためさらに補っておきますと、
論文では、「~である可能性がある」という程度から「~と見て間違いないだろう」というものまで、結論の確実性は色々ありえます。
たとえば「~かも知れないから、誰か調べてクレー」という程度の論文の場合、暫く経ってから「やっぱそうじゃないみたいよ、それ」というツッコミ論文が出ることもあります。
NatureやScienceの論文でも当然それはあり得ますので、どの程度確実な結論なのか、ちゃんと確認する必要があります。
大抵、要約(Abstract)の部分を読めば確認できます。本文閲覧が有料の論文は多いけど、その場合でも要約は誰でも無料で読めるものが多いです。
ちっとも科学的じゃないように思えるが? (スコア:1)
「うんぬんかんぬん」が確認されるまでは仮説ってだけで別におかしくはないな。
その後のも同様。ただの仮説。
確認されるまでは、ただの仮説。ただそれだけだよ。
それが信頼できる程度に信頼すればいいじゃん。
帰納法 (スコア:2)
事例を収集するわけですが、
事実として信じることから始まりますからね
公理の辺りまで来ると、同じ土俵に乗るか
ということが前提になりますしね。
「私は見た。しかし信じられない」 (スコア:2, 興味深い)
「私は見た。しかし信じられない」
数学者カントールが「直線上の『点の数』は、平面上の『点の数』と『等しい』」と証明してしまったことを数学者デーデキントに伝えた手紙の一文だそうです。
#二重括弧の言葉は厳密な定義があるけどそこは置いておいて。
物理学でも、「計算はできて答えは求まるが意味は分からない」という領域もあるし、まあ、理解できる部分、信じてる部分、本当は間違ってる部分、etc...がマーブル模様になっているってのが普通なんでしょうね。
学者はマーブル模様の境界をなるべく自覚的に峻別したいと考えてる人たちなんでしょうね。
科学者をまねればいい (スコア:2, すばらしい洞察)
追試してないと聞いたらとりあえず話だけにしておく。
追試に成功したと聞いたらとりあえず正しいことにしておく。
追試に失敗したと聞いたらとりあえず正しくないことにしておく。
それ以上の基準を求めるから信じるとか信じないとかになる。
「信じてるかどうか」と「科学的かどうか」は別。 (スコア:2)
科学はつまるところ、自然を解き明かすことでもあります。
たとえば私たちはまだ、自分たち自身を構成する元素がどうやって出来たのか、そもそもこの宇宙がどうやって出来たのか、まだ「完全には」理解していません。私たちには知らないこと、予測できないことがたくさんあります。その意味で、科学は「完全」ではありません。
でも、今こうやってパソコンを製造して使ったり、宇宙や海底を経由して地球の裏側と通信したりできる程度には、自然を理解しています。なぜ重力場が変わると時間の進み方が変わるのかは(かのアインシュタインでも)「完全には」わかっていませんが、「どのぐらい」変わるのかは分かりますし、GPS等を通じて私たちの身近で使われています。そういう意味で、科学は「実用的」です。
逆に言えば、「科学」は「完全である」必要はありません。「実用的な信頼性を持つかどうか」が、一つの評価基準となります。
天気予報を例に挙げれば、100%確実ではなくても、スパコンを駆使することで統計的にある程度の確度を持っており、それなりに実用になっています。
逆に、十分な信頼性のある論拠に基づかずに「明日は晴れると俺は信じる」と主張するのは、科学ではありません(たぶん、単なる個人的希望の表明か何かでしょう)。
ではもっと複雑な話で、地球温暖化(気候変動)の予測ではどうでしょう。
これまたスパコンを使います。天気予報のような「○○市の○月○日何時頃の天気」みたいな細かい予測は無理ですが、「地球全体がどのぐらいの速さで暖まるか」という大雑把な話ならば、意味のある確度を持って予測できるだろう [nies.go.jp]と見られています。
逆に、十分な信頼性のある論拠に基づかずに「そんな予測は嘘だと俺は信じる」と主張するのは、科学ではありません。
この例からも分かるとおり、「(誰か個人が)信じてるかどうか」を「科学的かどうか」を同列に論じると、議論の正確さを欠くでしょうね。
# ”誰かがそう信じたから”科学的事実が変わるのなら、誰も苦労しませんわ。
証明できないことは宗教 (スコア:2, 興味深い)
以前NHKに科学者が出ていて、
「証明できない事は宗教として話をする。証明できたら宗教ではなく成る」
と言っていました。
Re:メタ問題 (スコア:1)
>「科学は証明できる事である」
は、国語(の問題)ではないでしょうか。
答の1つはここに (スコア:2)
原題: The Demon-Haunted World
著作: カール・セーガン
翻訳: 青木 薫
新潮文庫版
邦題: 人はなぜエセ科学に騙されるのか 上・下
たぶん絶版
早川文庫版
邦題: 悪霊にさいなまれる世界 上・下
ISBN:978-4-15-050356-7 刊行日:2009/07/09
上記、訳本は同じものです。
科学とはなにか、科学的考え方とは何か、宗教との違いなどほぼ網羅してます。
本書を読み、内容に関しては私としては基本的なところはほぼ同意するものです。
他の方が読まれてどう感じるかは読まれた方それぞれかと思いますが。
信じようが信じまいが (スコア:1, すばらしい洞察)
量子力学を信じてないor理解してない人の身には放射能は通じない!とかだったら、実にめでたい話なんですが。
#重箱の隅に行きすぎて社会学と化してしまった科学哲学の話は知りません。
信仰(faith)と信用(trust) (スコア:1, 参考になる)
本家記事のタイトルでは信仰(faith)という単語が使われていますね。 ところが、我々が科学に対して持つ気持ちを表すのには、信用(trust)という単語のほうがあっている気がします。 イメージとしては公開鍵暗号の信用の輪(Web of Trust) [wikipedia.org]です。 権威ある雑誌に何本も論文を載せている研究者の言っていることは、まあ概ね信じられるんじゃないか、などです。
個人的には、信仰というと盲目的に信じる気持ちを表すような感じがしますが、 信用というと合理的に正しそうなものを選択するという行為を表すような気がします。
あと、科学と宗教の最も大きな違いは、訂正が行われるかどうかでしょうね。 宗教だとずっと変わらないものがあります。教義や本尊などですね。 これらが変わると宗教としてのアイデンティティが崩れてしまうので、 変わらないというよりは変えられないものでしょうね。
科学だと、ある日突然天地がひっくり返るようなことが起こります。 文字通り、天動説 vs 地動説の話や、逆転写酵素の発見などですね。 セントラルドグマ(中心教義)として、遺伝情報は DNA から RNA への転写によって一方向にのみなされると 信じられてきましたがひっくり返りましたね。 あと、雑誌の最後には errata がたいていついています。 そういった、修正をどんどん取り入れて、間違っていることを正していく機構が、科学には内蔵されていると思います。 ここが、宗教との最も大きな違いだと思います。
Re:信仰(faith)と信用(trust) (スコア:2)
宗教だって変わっていくものじゃないかなぁ。
組織化されて権威のある方々が登場すると
面子とか、力関係で変えられない所も出てくるけど
それは宗教/科学の区別とは違うところから生じてくる問題じゃないかしら。
「上から与えられたものだから正しい」の理屈が強制されず
誰もが知性的に反論できるのが科学的で、民主的であって
日本の社会もその様にありたいと思う。
# 今日は統一地方選挙です
Re:信仰(faith)と信用(trust) (スコア:2, すばらしい洞察)
科学とは理解する行為だと思います。
で、現実では理解が及ばない範囲がどうしても存在します。
それを神や人智を超える者の領域と定義します。そのほうが思考を整理しやすいからでしょう。
そこで思考停止に陥ったものを宗教家と呼び、理解する行為を続けるものを科学者と呼ぶのではないでしょうか。
体感よりは計器や法則を信じる (スコア:1)
卑近な例では、テスターで電圧を測って1.8Vとか表示されたときに、それが他のポイントの電圧やオームの法則と矛盾しない妥当な値だったら、1.8Vだと信じます。指で触って「このかすかなピリピリ感は1.8じゃなくて1.9Vのはず(キリッ」なんてことはないわけで。
紫外線の日焼けとか熱射病の兆候とかは人間はだいたい自覚できますが、放射線は致死レベルにでもらなら無い限り体感できませんからね。 人間の五感で体感出来ないものに対して、計測値と物理法則と、過去の経験(疫学調査結果など)を信じるのが科学じゃないですかねぇ。もちろん、誤計測も理論の誤りもあり得るので留保付きの「信じる」ではありますが。
原発が安全だと思っていた人は安全「神話」を信じていた人 (スコア:1, オフトピック)
我々は専門家の言う事を、それを言うのが東大の教授か、それとも、他の大学の冷遇された立場の人間かという「地位」で判断して、御用学者の言う事を信仰した。しかし、原発は絶対に事故を起こさないというのは、疑似科学も同然だった。自分で原発を理解しようとしなかったツケを今、日本の国民は払わされている。”安全だから事故が起きた時の事など考慮する必要はない”のごときトンデモを信じたのは、カルト宗教を信じたのも同然の悲惨な結果を招いたのである。
量子力学は証明されているというより「こう仮説を立てると説明がつけやすい」というだけの話だと理解している。もっとうまく説明できる仮説にとって代わられる事もあるし、解明される日が来るのかどうかは分からないが、「まあ、今のところはこう考えておいていいだろう」「そう考えておけば大きな矛盾は生じない」程度に考えておく方が。
私は科学は好きだが、科学には限度もあると思う。全てが今の科学で説明できるわけではない。今の科学で信じられている事なんか、100年後の人間が知ったら、大笑いされそうな間違いだった、となるかもしれない。原発は安全、は50年持たなかったし。ビッグバンも熱力学第二も宇宙の事も、証明はできないし最新の理解をする事も難しい。将来はどんな説が信じられているかわからない。つまり今は間違いを信じているかもしれないって事。
同様に「自分は科学の素養がある」と思っている人間は自問するといいだろう。「原発を安全だと言われて信じたようなのと似たような思い違いを他の科学分野でもしていないか」「科学者の言う事を信仰しているだけではないか」と。自分で学び、考え、理解しようと努力しないなら、その科学分野については単に信仰しているだけと一緒、と自戒を込めて考えたほうがいいんじゃないかな。全ての科学分野で知識を得る前に老いてしまうので、必要 or 役に立つ or 興味深い科学にちょっと手を出すのがやっとだが。
いわゆる情弱にとってはな (スコア:1)
まず、モノゴトの尤度をture/falseの二値でしか認識できない奴を情弱と定義する。
この定義に従えば、情弱にとって科学を含むモノゴトは信じるか信じないかのどちらかにしかならない。
しかし、つまりアナログな尤度のままモノゴトを認識する、情弱ではない者にとって、科学とは「信じること」なのか?などという問いかけは無意味だ。単にモノゴトに尤度がくっついているだけだからな。
Re:原発の安全は「絶対大丈夫だと信じること」 (スコア:2, 興味深い)
くだんの人は原発の安全性を信じてたんだろうけど、
あの原発事故のプロセスは科学的になーんにも間違ってないんだよね。
でかいプログラムを書いて動かすとバグが出る。
でもそのバグの動作自体は何も間違っちゃいない。
ここにいる人はよく経験してるんじゃないかなそんな事。
〜◍
Re:原発の安全は「絶対大丈夫だと信じること」 (スコア:1, 参考になる)
西山審議官も、現保安院長も、経歴から見るにバリバリの文系(!?)だしね。
保安院って技官で固められていると思ってたよ。
Re:原発の安全は「絶対大丈夫だと信じること」 (スコア:1)
相手が魅力的だと、結構、そういうことってあるよね。
ほんとに魅力的なのか?自分のものにして、どれだけ得ることがあるか?をよく調べるってことだろうね。
きっと魅力的で欠点もなく、モノにするとすばらしいことがあると「信じた」ことが問題なのかもしれないね。
そして、「ほら、こんなに電気を使える生活ですよ」と魅力的に見えるところをご近所に...www
信じるってのは、「何も考えず見た目/うわっつら」で起点として信じるものと、「考えて、自分なりに納得して/内面も合一して」結果として信じるものがあると思うんだな。
科学は大きく歪められた(Re:原発の安全は「絶対大丈夫だと信じること」 (スコア:2, すばらしい洞察)
代案はそれこそ20年以上前からガンガン言われてる訳で。
例えば太陽光や地熱・風力の積極推進と分散化発電を併用して足らないところだけ火力や水力、原子力でまかない、不足分を減らして原子力から廃止してくというロードマップみたいなものはチェルノブィリ事故以降ずっと提示され続けてますよ。
問題は、原子力以外は高コストとか温暖化対策にならないとか色んないい訳(嘘でもある)付けて、原子力と競合する分野・特に再生可能エネルギーと呼ばれてる太陽光・地熱・風力への設備投資を非常に抑えこんできたり、電源品質を盾に取って分散化発電への補助金をどんどん細らせていった事と、それを盾にしてまでマスコミに出てきたり国のエネルギー政策策定に携わってる所謂御用学者の類が提示される「代案」をことごとく「非現実的」「コストが高い」と切って捨ててきたのにずーっと日本が支配されてることにあります。
そのプロセスで、「科学」が非常に有効な形で使われた。と言うか、科学的知見や科学的思考というものが原発推進に極めて都合がいいように取捨選択され、原発推進以外の結論が排除されるような方向へと歪められてきた事は否定できないと思いますよ。
元々、原子力以外が温暖化対策として「有りえない」結論を導き出すために、地球温暖化問題が強引に推し進められてそこへの疑義を完全に拒絶する(気象学会の槌田裁判とかクライメートゲイト事件とか)問題がこの数年吹き出して来てる。
原子力以外に温暖化対策とエネルギー需要を満たす解決策がないと決め付けるために、所謂「原子力マフィア」が投じた資金というのは莫大なもので、誰も把握できてないんじゃないかなぁ…東大で東電や原子力業界の冠付き口座が多数あるのが報じられたけど、以前から私が問題視してる東大IR3Sみたく、主要教員が揃って原発マネー漬けで(原子力関連の学会誌や業界誌にエッセーを記述してる…今回の事故以降の報道として、電力企業の依頼したエッセーだと500万とかそういう原稿料が普通に飛びかうらしいと報道があって呆然としましたが)、
実際つい最近まで再生可能エネルギーまでの「つなぎ」に原子力を推進して・火力などを排除する理由付けにCO2単純温暖化説を用いると言う相当狡猾な方向性を出していた司令塔として気象学会とIR3Sが位置してきたわけで…
Re:科学は大きく歪められた(Re:原発の安全は「絶対大丈夫だと信じること」 (スコア:2, 荒らし)
おっしゃる「代案」というのが”再生可能エネルギーをもっと使うべき”という意見を指す(含む)のでしたら、それが20年以上前から言われてきた、という点において同意します。ドイツとかそれこそ20年前から始めてて、今じゃ年に原発一基分ぐらい再生可能エネルギーによる発電量を増やしてます [www.bmu.de]し。
また日本でも、もっと使った方がお得ちゃうかー、って環境省も報告書だしてます [env.go.jp]。ただし化石燃料への依存を減らすのはともかく、原発まで置き換えるのはそれなりに大変そうです。
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その一方、温暖化の話が原発推進派の陰謀だと言いたいようなんですが、、残念ながらこれも、科学的一番信頼性の高い結論だと思われます。
世界中の人々のチェックにもかかわらず、IPCCによる報告の主要な結論は何も変わっていません [env.go.jp]。それを変えられるような
・科学的に認められた、IPCC報告書より信頼性の高い反証
もしくは
・大規模な不正があったという確実な証拠
のいずれも、あなたの書き込みに示されていません(私も知りません)。
貴方はそのような確実な証拠を示しておられないのに、「歪められて」とか「狡猾」などの悪口で、人を批判しておられます。
そのような行為は科学ではなく、荒らしに分類される行為 [wikipedia.org]では無いのですか。
原発を嫌ったり温暖化を否定したりしたいお気持ちは分からんでもありませんが、そのために科学に八つ当たりするのはおやめ下さい。
残念ながら現在の人類の技術は、どれも「万能」では無いのですから。
Re:科学は大きく歪められた(Re:原発の安全は「絶対大丈夫だと信じること」 (スコア:2, すばらしい洞察)
Re:原発の安全は「絶対大丈夫だと信じること」 (スコア:1)
以前知り合いの研究者から聞いた話
地震あるいは地質学はまだまだ未解明な部分が多く様々が説があるらしく、地震の後、諸説の中で該当あるいは類似する説があることは珍しくないらしい。大震災のあとなんかでは、TVなんかが該当した説や学者を取り上げると、ここぞとばかり自説を主張し次はどこそこが危ないとか言いはじめたりすて不安を煽ることもあるらしい。今回そのような学者がいるかは知らないが、過去の例からはそれ以降は当たることはまず無いので、信じない方が良いと。一度当てはまったくらいで説が正当化できるくらいなら苦労しないと。教授とかの肩書きがあるので始末が悪いらしい。
そう言えば、低い被曝線量の影響も明確に判っていないので諸説有るうえ、学者によって原発推進派、反対派、中立派があってその違いによっても見解が異なってくるだろう。明確になっていないので当然ではあるが。今回、様々な学者の見解をTVやネットで知ることができてしまうことで、見解の違いが明らかになり、何を信じれば良いのか判らず不安を煽っている面もありそうな気がする。
-------- izyu
Re:科学はヒトにモノを伝えるための道具 (スコア:2)
だからさぁ、今までにあった例に対応するだけでは不十分だってのは明らかでしょう?
>今までの1.1倍なのか100倍なのか分からないんだから前例に基づいた対策しか取れないって話でしょ?
今までの1.1倍なのか100倍なのか分からないんだったら、モノ作っちゃダメだよね。
ましてや想定外だからといって、許容できないモードで破壊してしまっちゃダメだよね。
今までの何倍以上のコトが起こる確率がの上限が何%、最大被害がいくらだという正確な見積もりをもって
安全率を設定し、その範囲外の事象が起こったときに100%責任が果たせるだけの保険を掛ければよいでしょう。
それをしないで安全で経済的であると主張していたんだから、無保険で自動車運転するくらい無責任ですよ。
機械設計において、安全率が上位から与えられないから設計できないなんて言えるのは設計業務だけを請け
負う下請けだけです。根拠をもって安全率を設定するのは当然のこと
たかだか世界に400基強しかない原発が、人類を脅かすほどの事故を複数回やってるのは、自動車や航空機の
品質よりはるかに水準が低いところで話をしていると言わざるを得ないよ。
Re:科学はヒトにモノを伝えるための道具 (スコア:2)
>その見積りを誰も出せなかった(出さなかった)ために対策できなかったのではないか、ということ。
んなこたぁない。通常の産業ならば、見積もりを出せないなら信用できない物という前提で保険会社が
保険金額を算定するだけ。「想定外の災害が起こるおそれがある」と指摘した側がそれを数値で示さ
ないと無理なんて馬鹿げた話には決してならない。
通常の産業なら、保険をかけるべき側と対等以上のコストをかけて本来保険会社が危険を見積もる。
例えば湾岸戦争の時にペルシア湾を航行する一般船舶には、50%の掛け率が設定されていた。それでも
ビジネスになると考える人は、半分の確率で船舶が撃沈される可能性を想定してビジネスを継続した。
保険を掛けなくて、撃沈されて、想定外の攻撃だからごめんなさいじゃ、単に無責任というもんだ。
もちろん、そんな非常時でもコストはある程度正しく価格に反映された。航空機でも建築物でも、
自動車の安全性能でも一緒。保険コストが高すぎるならば保険会社を納得させるだけの証拠集めと改善
を継続しないといけない。他の産業、例えば自動車産業ならば、可能性が示唆されるだけでリコールす
るし、可能な改修をすることも当たり前。
原発の場合は、何かあったら政府が補償するという法制度を作り上げたことで資本主義に
おける正しいリスク抑制機構、保険制度によるリスク算定とフィードバックによる改善を棄てたわけだ。
結果的に本来だったら取り除かれたリスクは取り除かれなかった。誰も見積もれなかったのではなく
コストを掛けて正確に見積もることで利益を得る自由(すなわち保険参入の十分な余地)が予め無い状態
で原発は作られたから、誰も見積もらなかっただけ。
Re:うわー (スコア:1, おもしろおかしい)
Re:全ては信じることから始まります。 (スコア:1, 興味深い)
無宗教ですが、何も信じないということはありませんね。
単に、現存する宗教は多かれ少なかれオカルトを含み、信じるに値しないと思っているだけで。
何より私が宗教嫌いなのは、全ての宗教が心に干渉してくるからです。
(宗教の目的は「超越存在の肯定」ではなく「心の平穏」なので当然かも)
宗教は「信仰しなければ救われない」と言いますが、科学は人の心など知ったこっちゃないのがありがたいですね。
パイロットが流体力学を全く信じなかったとしても、飛行機は飛びますから。
「宇宙を創造した神は存在する。しかし人間に対しては塵ほどの興味も持っていないので、信仰心は必要ないし、いかなる願いも聞き届けられない」
みたいな宗教だったら拒否反応も起きないのですけど。
(でも、そんな教義でお金は集められそうにないw)
Re:全ては信じることから始まります。 (スコア:3, 興味深い)
「宇宙を創造した神は存在する。しかし人間に対しては塵ほどの興味も持っていないので、信仰心は必要ないし、いかなる願いも聞き届けられない」
どこかで聞いた覚えが。ああそうだカート・ヴォネガット・ジュニア著「タイタンの妖女」(原著1959年)に登場する『徹底的に無関心な神の教会』だ。「ちっぽけな人間には、全能の神を助けたり、喜ばせたりすることはなにもできない。そして、運のよしあしは神の御業ではない。」ハヤカワ文庫SF1700(第三刷)p.256に出てきます。
このほかアーサー・C・クラークも似たような宗派(正規分布曲線をシンボルマークとするもの、ただしあまり人気を集めなかった)に言及していたと思いますが、どの作品だったかは思い出せません。なんだったっけ…?
Jubilee
Re:社会活動の一種 (スコア:1)
その場合も、「相手は利害もわからないほど馬鹿じゃない」事を前提にしていますので、信頼関係ですな。
fjの教祖様
Re:社会活動の一種 (スコア:1)
「相手が馬鹿である」事を信頼している場合の話をしているのか、
「相手が馬鹿ではないのに利害関係が上手く成立する」場合の話をしているのかが分からない。
前者は結局信頼関係に過ぎない。
後者はただの偶然だ。
fjの教祖様